working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

テレビゲームと親父と私(1)

ハイスコアガール」の2期は前期の未放送話から始まるんですね。

 

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原作読んでないからこれで終わりかと思ってた

Blu-ray買ったから関係ないけど。主人公の大野晶と矢口春雄は実在すれば私と同い年なので、時代の既視感と共感が他のアニメと比べて圧倒的に強いのです。私は彼女らのようなゲーム三昧の青春時代を送ることができなかったのに、なぜこんなに揺さぶられるのか。それはこの作品が、誰かや何かを好きになる以前の気持ちを思い出させてくれるからだと思っています。

 

そして唐突に思い出話を始めるのです。「ハイスコアガール」恐るべし。

 

30年くらい昔、ファミコンといえば人の家でやるものでした。

 

gentlyの生まれ育った家庭は厳格というほどではありませんが、祖父が建設業を営む傍ら市会議員を務めるという、官民統制が何ら機能しない土地柄で、いわゆる家父長制の遺風を色濃く残しながら、祖父が死んで女方面にだらしのない親父が家長となってからは前妻の子や親父の姉妹との遺産相続をめぐる争いが絶えない、あまり平和とはいえない環境でした。そんな親父の2度目の結婚で最初に生まれたのが私です。おかんは当時37で、これまた当時の初婚としては遅すぎるものでした。

 

もともと大阪で3姉妹の末妹として暮らしていたはずのおかんが、なぜ片田舎の土建屋でわがまま放題に育てられた親父と結婚することになったのか。家庭環境がややこしすぎて一度も聞く機会を得ないまま親父が他界して22年。おかんは存命ですが長く会ってません。ずいぶん前に結婚に対する考え方の違いで大いにもめました。まぁそれは今ええやん。

 

45だった親父にとって私は孫のような存在で、蝶よ花よと甘やかされ可愛がられたそうですが全く覚えてません。幼少期の遊び相手はでかいシロクマのぬいぐるみがメインで、でかいペンギンもいましたし、でかいネコもいました。あれはトラかな。とにかく大量の動物のぬいぐるみに囲まれて、寝るときも起きているときも傍らにはどれかがいました。思い出したら超甘やかされてるやんけこのくだり完全にお嬢様やんけ。ローティーンを迎えるころまで男女の見分けがつかないユニセックスな髪型と服、世が世なら禿(かむろ)と恐れられたかもしれない出で立ちで過ごしていたのはその名残かもしれません。たぶん私はあそこに毛が生えてきたせいで美少女になり損ねたのだろう。

 

ただし、望めばなんでも買い与えられたらしい奇跡の時代にも関わらず、ひとつだけ例外がありました。テレビゲームです。ファミコンことファミリーコンピュータは1985年の発売以来爆発的な人気で、その勢いは同年居住人口が市政開始以来初の3万人を越えてピークに達した私の田舎でも絶大でした。小学生になって1年、雛咲深紅が化け物屋敷探訪を始めたころ、私の頭の中には恐竜じみたトゲトゲ甲羅の巨体から吐き出される火炎と右スクロール画面しかありませんでした。

 

それはもう大いに欲しがりました。おもちゃ店で駄々をこねたことも一度や二度ではなかったです。そしておかんに大いに叱られました。買ってもらえない理由が「ファミコンやったらアホになる」という、「コーラ飲んだら骨が溶ける」並みに科学的根拠のない説教に納得するはずもなく、やがて言って聞かせて分からないとおかんが判断するや、最後は親父に大いにぶん殴られました。

 

祖父の建設業を引き継ぎ、仕事柄全身に程よく筋肉のついた親父の膂力は凄まじく、駄々をこねまくった代償として時代錯誤な折檻を幼い我が身に刻み込むことになりました。右腕がスイングしたと思った瞬間、側頭部から首がもげそうな圧が加わり、視界に映る天井と畳が抽選機のごとく回転して、勢いづいたまま土間に蹴落とされ(古い家なので座敷から土間は階段状になっていて、1mほどの落差がありました。土間は石葺きなのでそのまま落ちたら死ぬほど痛い)、そのあとは覚えていません。

 

意識が戻ったところは土蔵の2階で、体は荒縄で縛られ、足元が浮いてました。要するに梁に縄を渡して吊し上げられとるのですね。江戸時代かよ。ふと見ると木刀を提げた親父がロウソクの火が揺らめくなか鬼の形相で何かを怒鳴り散らしていましたが、その前の平手打ちが何往復したのか、耳がよく聞こえません。ありとあらゆる穴から出血しているのが自分でも分かり、それが耳ではなく目だと知ってまた気絶したと思います。このとき眼球を損傷し、以来右目の視力が著しく低下して眼鏡をかけることになりました。聞き分けのないアホガキは生涯をともにする痛みをもって己の無力と愚かさに向き合わざるを得なかったのです。以来、「ファミコンほしい」は死を意味するワードとなりました。

 

あの頃からテレビゲームに対する異常な執着心が芽生えたに違いないのですが、なぜそこまで執着したのか自分でもよくわかりません。みんなが持っているから欲しかった、みたいなありふれた理由だったのかもしれませんし、単にテレビの影響を受けただけなのかもしれません。「オレたちひょうきん族」に代表される、私が視聴を許されていたテレビ番組の合間には必ず任天堂がスポット枠を持っており、ディスクシステムと「ゼルダの伝説」とか、その他有象無象のソフトとか、私の知りえない世界の楽しげな空気の片鱗に振り回されていました。ちなみに「8時だョ!全員集合」は見ているだけで親父の鉄拳が飛んできました。

 

おかんは延々と繰り言を並べて叱るタイプの人間で、親父はブチ切れると誰も制止できない、それがなんらかの教育的意義を持つものか、田舎の土建業という清も濁もない世界で生きるうちに蓄積した鬱憤晴らしなのか誰にもジャッジできない、凄まじい暴力を家族に働く人間でした。

 

しつけって何でしょうね。今の親たちが子を殺すのは異常だと人は言いますが、それがしつけであろうとなんだろうと常軌を逸した暴力が振るわれるのはなにも今に始まったことではないし、珍しいことでもありません。子供の生死を分けたのは結局その親が人間だったか鬼畜だったかの違いでしかないのでしょうよ。本来他人の児相職員が口を出せる問題ではないのです。子供は親に最低限の生活環境を保障される代わりに一定の制約を受ける。そして「最低限」と「一定」のさじ加減を決めるのは親である。子供の人権などという近代的概念が一般家庭に広まっていると本気で信じている人たちがいるなら、それはそれで大いに幸せなことですけれど、子供を育てる上でしつけることができない無能な親の口実として利用される部分が大き過ぎて、確固たる信念のもとにそれが行われているとは全く思いません。

 

親父の暴力はきつかったけど、人間でした。

 

あと、新聞折込のおもちゃ屋さんのチラシ。えんじと白の筐体の下に書かれた1万5千円という額面がどういう貨幣価値を意味しているのか、百円玉が大金だった私には知りようもなく(百以上数えられなかったんだと思います)、高いのか安いのかの判断もつかなくて、ソフトパッケージに描かれたイラストを眺めたり、その部分だけ切り取って集めたりして、どんなゲームなんだろうと想像していました。

 

買い与えられなかったことを今でも覚えているといえばファミコンくらいしかなく、私は確実に小学生のもっともvividな話題から落ちこぼれていました。話題の輪から外れ、片道1時間、山越えの通学路を一人で帰っていると「メガネ」と呼ばれてよくいじめられました。何せド田舎なので、メガネをかけている小学生なんて当時は非常に珍しかったのです。ランドセルを蹴られたり、放り回されたり、突き飛ばされたり唾かけられたり。彼らには話題に入りたくても入れない私の態度、親父への恐怖のあまり「ファミコン」を口にすることすら憚られる硬直した態度が、孤高のガリ勉を気取っているように見えてなんかムカついたのでしょう。小学生が孤高なんて言葉知ってるわけないので。

 

そりゃもう悔しかったですよ。今でも殺してやりたいくらい。

 

知らないなりに話題に手引きしてくれた誰かがいたのかどうだったか。私も運動は苦手でしたがやられる一方ではなく、やられた分はやり返す気持ちで反抗(ただし親父は除く)していたらいじめはいつしか収束し、誰もが仲良くなり(あのスピード感はいまだに謎ですが、田舎の子供はそういう生き物だったのでしょう)誰かの家に集まってファミコンをプレイしている様子をひたすら見るという、不毛極まりない、しかしプレイ画面を見ているだけで昂揚する、そんな時間を過ごしたのでした。ドラクエ2、高橋名人メガテンくにおくんさんまの名探偵……コンテンツの質なんてどうでもよくて、みんなで寄り集まって同じ画面を見ているというだけでなんか楽しかったのです。つまりこのときはほとんどファミコンを触らなかった。というか触れなかった。

 

なぜなら、2Pコントローラに触れることを固く禁じられていたのです。興奮して引っ張って筐体が動くとバグって止まるから。ファミコンは衝撃に弱かったのです。

 

ではどこで触っていたのか。縫製の内職をしていた近所の気のいいおばちゃんの家に5つ上の男の子がいて、彼と一緒に遊んでいたのです。私から見て彼はとても気の優しいお兄さんで、1人用のゲームをプレイするときはいつも私に譲ってくれましたし、虫取りに行くときも自分で捕まえたカブトムシを私の虫かごに入れてくれたりして、面倒を見てくれたのです。私には年長の兄や姉がいなかったのでとても頼りになる優しい存在でした。ドラクエだけは当時の私には難しく、彼がプレイしている様子をぼんやり眺めているだけでした。ダンジョンに入ったときに周囲が真っ暗でね、呪文を唱えると周囲数マス分くらい明るくなってだんだん狭まっていくやつ。あれ何ていうんでしたっけ。

 

そんな彼の優しさも指示されたものに過ぎなかったことを理解するのはもう少し後になってからです。おばちゃんとおかんは他のご近所さんに比べて仲良しで、親父の稼ぎで成り立っているおかんの経済的地位に嫌味を言わないおばちゃんとの間にある種の主従関係が成立していました。おかんは時折おばちゃんを呼んで、この辺りでは手に入らない洋服を与えたり、場合によっては金銭的な援助も施していました。おばちゃんの旦那さんはいわゆる土方で、暇さえあれば博打と酒にうつつを抜かす人でしたから、おばちゃんがこの家の家計一切を取り仕切っていました。

 

それは私を預ける代償の性格を持っていたのかもしれませんが、やはり度を過ぎたものだったと思います。

 

なのでおばちゃんは自分の息子にきつく指示していたのです。あの子を泣かせたり怪我させたら大変なことになる。ちゃんと面倒を見るように。これ、見ちゃったんだよな。おばちゃんが小声で、彼の頭をはたきながらそう言っている様子を。考えることをあまり得意としなかったであろう彼は母の指示を墨守し、私が嫌な目に遭わないように色々と気を回してくれたのでしょう。

 

ただ指示であれなんであれ、彼がしてくれたことは私にはありがたかったし、今でも感謝しています。

 

そんな彼についての余談ですが、20年ほど前にどこで見つけた女か知りませんがデキ婚に発展しており、我が子(♂)にDQN確変状態のキラキラネームをつけました。時の経過は恐ろしいものだ。嫌な記憶を優しく溶かすこともあれば、懐かしい思い出に泥を塗ることもあるのだからな。月の輝く夜と書いて「るきや」とか、だいたいそんな名前ついた子は、いやもうええか、私には関係のない話だった。

 

今回はこの辺で。次は全然別のネタ書いてるかもですけど。