working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

テレビゲームと親父と私(2)

放課後さいころ倶楽部」の主人公の京都弁がおかしいとgentlyかいわいで話題になっています。演じる宮下早紀さんは奈良県の人なので関西のイントネーションは理解しているはずなのになぜこんなことが言われているのか。

 

後輩「台本作家がおかしいんですよ、あんな言葉京都の人使わないですよ」
僧侶「あの発音はない、ボードゲーム紹介番組ぐらいの気分で見たほうがいいです」
店長「僕はボードゲーム好きなんで別に…」

 

さっき第2話を見て、宮下さんの関西弁がおかしいとは感じませんでした。ただ、関西弁と京都弁は似て非なるもので、私が京都弁を真似するとあんな感じになりますし、優秀な後輩が言うように普段使わない言い回しがポコポコ出てくるので、京都らしさを演出しようとするあまりおかしなことになっているのは一理あると思います。大野翠ちゃん(富田美憂さん、埼玉県出身)は標準語なのに田上くん(天崎滉平さん、大阪府出身)はコテコテの河内弁で、関西系言語が使える声優さんだけアテてるから土地勘が安定しないのもあります。あれ一応京都なんですって。へぇぇ。そういえば富田さんは「京都寺町三……突然頭痛が。京都を借景にしてる割に事件は常に室内でぐわぁぁ頭痛が。

 

youtu.be

とりあえずPV貼っとこう。高屋敷綾ちゃん可愛いじゃないですか。私もあそこに毛さえ生えてこなければあんな美少女になれたのだ。

 

今回は一旦ファミコンから離れて、アナログ世界の門戸を叩いた頃の話です。

 

ハイパー折檻を経てgentlyのファミコンへの執着は種火のように心の奥底へ埋められました。しかし、小学生中学年ごろからオタク化の萌芽というべき趣味にのめりこみ始めます。「ネクロスの要塞」です。キャラクターが描かれたカードと、温度で色が変化する樹脂人形のついたチョコレート菓子を、月500円のお小遣いでめいっぱい買い込み(いつもおかんの買い出しついでだったので税負担はうやむやでしたが)チョコレート菓子は捨てるという暴挙を毎月繰り返し、一部の同級生から「もういらないから」と譲ってもらった分も合わせて、最終的に300セットくらい手元に集めて何をしていたかというと、おままごとのような遊びでした。

 

本来の遊び方は当然おままごとではなく、プレイヤーキャラを選んで、モンスターキャラの入った箱(買ったときについてくる箱です。置き場ないから捨ててました)をいくつか用意して、ランダムに開けて出てきた相手とさいころを使ってバトルし、勝利すればモンスターが持っているアイテムを入手できるというものでした。詳しいルールは忘れましたが、より物質的に豊かになったTRPGを想像してください(TRPGを知らん人は調べてください)。

 

ただ、この公式ルールの遊び方には致命的な欠陥があって、ボスキャラとかキーアイテムを持っているモンスターを、スーパーや駄菓子屋の店頭でブラインドな状態からひとつずつ、最終的に全部揃えないことにはゲームが成立せず、一向に面白くならないことです。そりゃそうだよね。プレイヤーとモンスター数体では、金太郎とクマが毎日相撲取ってるようなもんだ。ネクロスの世界観再現には小学生のお小遣いをはるかに凌ぐ莫大な投資が必要だったのです。

 

ファミコンがだめなら、ゲーム的な何かを。私は間違いなくゲームに飢えていました。人生ゲーム、ドンジャラプロ野球カード、モノポリードラクエのダンジョンバトルを再現したボードゲーム(これは非常によく出来ていて、2人のプレイヤーが10×10のマス目に壁やモンスターや宝箱を好きに配置して、互いのダンジョンの間に仕切り壁を立てて見えなくし、マス番号を相手に伝えてそこに何があるかを答える、最終的に相手より先にダンジョンを攻略したほうが勝ちというものでした。モンスターをデザインしたゴム人形がよく出来ていて、並べたらきれいだろうなと思ってエキシビジョンしてたら「片づけてない」という理由でおかんに捨てられました)その他もろもろ。ファミコン以外は希望すれば買ってもらえました。そして買ってもらえた瞬間と、解説書を読んでいる時間だけは、これから至福のときが始まるのだという昂揚感に満たされていました。

 

そしてこれら電源を必要としないゲームの数々にもシステム上の致命的な問題があったのです。これらは常に対戦相手を必要とします。低学年の妹を付き合わせたものの、彼女は彼女でジェニーちゃん(日本人顔をしたリカちゃんよりも大人びた外国風少女の着せ替え人形)と遊びたい事情があり、早く終わらせるためにわざと負けようとするので、腹を立てて取っ組み合いのケンカになり、力で私にかなわない妹を泣かした後、おかんの仲裁の名のもとに年長の私が一方的に身体的制裁を受ける日々でした。

 

では同級生たちはどうか。みんなファミコンに夢中で、人が手でコマを動かすとかサイコロを振るとか駆け引きするとかいった楽しみを共有するにはまだまだガキで、ゲームといえばテレビゲームのことでした。片田舎の子供はオートマチックにパラメータが割り振られ、用意されたステージで踊ることに専心し、頭を使うことを徹底的に嫌ったのです。アホやから仕方ない。

 

では、おかんは。

 

「そんなややこしいんわかれへんさかいあんたらであそび」

 

その「あんたら」はどこにいるのか。

 

そして、万に一つも遊び相手になり得ない親父は、私が下校してくる時間に在宅のはずもなく(いたら別の心配をすべきですね)帰ってきたら飯食って野球中継見て風呂入って(私はこのへんで寝てました)テレビ見て寝るだけです。ボードゲームは与えられても、対戦相手を与えてもらうことはできなかったのです。まさか相手を買ってくるわけにもいかず、ボードをセットしては片づけるという意味の分からない行動を繰り返し、ゲーム性への渇望のあまり、最後は一人で4人分のプレイヤーとなってチーム最適で都度判断しながら遊んでいましたが、これがすさまじくつまらなかった。何とか楽しくしようとチームに行動特性(ここでは必ずこのチームに有利/不利に働くように動くとか)を与えたりいろいろ知恵を絞ってみるものの、ことごとくつまらなかった。相手の手の内が見えすぎるというか、相手は私である限りゲームに最も重要な駆け引きや読みが存在しないのですから。これはもはやゲームではなく小芝居であることに気づき、特定のチームを勝たせるために変な肩入れなどしてストーリー性を持たせることにも腐心しましたが、死ぬほどつまらなかった。

 

あぁ。なぜだ。

 

なぜ、ゲームの相手がいない私に、一人でも遊べるテレビゲームを買ってくれないのか。同級生たちの集いに参加してもファミコンに触らせてもらえない。優しい年上の男の子だって毎日私と遊んでくれるわけじゃない。それにファミコンしに来たのがバレバレだと、なんかいやだ。ボードゲームは稚拙な脚本しか書けない芝居の舞台となり、そんな作業にも飽きて片づけなくなり、片づけなくなればおかんが容赦なく黒のポリエチレン袋に放り込んで外のポリバケツに直行し、夜更けに業者が大音量を立てて回収していく運命でした。舞台は回転し、回転し続け、以前のセットは二度と日の目を見ることのない奈落に消えていきました。

 

この間、家族と全くゲームをしなかったのかというと、そういうわけでもありませんでした。親父は暴力を振るう人ですが日常的にそうだったわけではなく、時折私と妹を相手にオセロや将棋やUNOに付き合ってくれましたが、いかんせん50代半ばを過ぎた親父は伸び盛りだった私たち以上に強くなることはなく、あるとき将棋で私にかなわなくなった時に、少し離れた町の先生に私を仕込むよう依頼しました。なぜそんな話になっているのか意味がわかりませんでしたが、ここで断るとまた親父の折檻が始まると思ったのでしぶしぶ受け入れました。

 

あのとき、親父から有無を言わせない何かが出ていたのは間違いありません。大方ませたガキだった私が勝ったあと天狗になって、しょうもないことを親父に言って日々逆鱗を撫で回していたのでしょう。最大限親父の優しさに配慮するなら、私に将棋の筋の良さを見出して、鍛えようによってはものになると考えたのかもしれません。

 

私が将棋を指していたのは親父相手なら毎度快勝できる心地よさに酔っていたからで、その先なんてどうでも良かったですし、たとえそれが井の中の蛙でも全然構わなかったのですが、私の人間性を変えた出来事のひとつでもありました。

 

何年くらいかな。中学3年の途中までの4年くらい通いましたかね。毎週日曜、チャリを飛ばして20分かかる先生のご自宅には半端なく強い地元のおじさま達がいました。先生を含むおじさま達には駒落ちで1回も勝てなかったし、後から先生の門に入った下級生にもコテンパンにされ、万が一私が勝とうものなら泣いて悔しがって、次に対戦するときには木っ端微塵に美濃囲いを突破されました。好敵手がいるから実力が伸びるというのは本当ですね。ただ私が彼らの好敵手になり得なかったのは怠惰だったから、次戦に向けての研究など何も準備せずただ打っているだけだったからでしょう。

 

正直、面白くなかったです。先生の奥様と私が互角の棋力で、隣で見ているおじさま方が「あれー」とか「うわー」とか言われるのも辛かったなぁ。何事も強くなるには研究と練習が必要というエッセンスを省みることなく、世界には少し上を向いただけで強い人たちがいることだけを覚えて、高校受験を理由に門を去りました。

 

ちゃうやん。私は将棋が強くなりたいわけちゃうねん。もっと子供子供したゲームがやりたいねん。同級生を小馬鹿にして駆け引きとか頭使うとか言ってましたけど、結局私もまだガキで、自分が勝てるゲームしかやりたくない、駆け引きと思考の本質に触れた途端ダウンしてしまう弱者だったのです。対戦相手が欲しいゲームに対戦相手がいない。もっともっと掘り下げれば、ファミコンが欲しい。そのことへの不満が堰を切って溢れ出した時、いよいよメンタリティが歪み始めます。

 

日曜日がそんなことになって以降、めぐりめぐって私の心の平衡を保ったのは「ネクロスの要塞」でした。集めて、眺めて、時々思いついたように小芝居をして、カードは輪ゴムで束ねて、人形は袋に入れてしまえるので、片づけるのが楽でしたから、これだけは捨てられずに持っていました(何回か、夜更けまで遊んで眠気に負けて片づけきれなかったタイミングでおかんによるゲリラ廃棄が断行されました。「弾圧の時代」と呼んでました)。

 

あるとき、このキャラクターカードを使って、一人でも楽しめる応用的な遊びを発明できないものかと考えた末に編み出したのが、カード版「天下一武道会」です。これを思いついたのは親父の姉、つまり叔母の家で日常的に行われていた花札がきっかけです。

 

叔母の家は子供の足で自宅から10分程度の距離で、おかん、妹を伴って行くことが月に1度ありました。週末には親戚がよく集まり、居間でいつも行われていたのが花札で、プレイヤー全員が喫煙者という環境下、ニコチンで茶色く濁った水に沈む黒い吸い殻と、傷だらけのコップに注がれたキリンビールと、左官の手仕事で仕上げられた海苔のようにくすんだ照りを放つ土壁と、もとは白かったのに薄黄色くなった座布団に囲まれてゲームの様子を見守っていましたが、私には何が行われているのかよくわかりませんでした。ただ、座布団の上で勢い良く跳ねる札の音と呼応するように唸ったり歓声をあげたりする様子が心地よくて、札が勢い余ってひっくり返る様子がなんとなくメンコのようなものを連想させたのかもしれません。

 

どうでもいい話ですが、花札メーカーといえば任天堂です。大人も子供も夢中になるゲームを作ってたんですね。えらい会社やで。

 

家に帰って、片手に1枚ずつカードを持って、空中で回転しながらぶつけ合わせるように投げ、両者とも表か裏ならもう一度、どちらかが裏になれば裏のカードだけを同じように投げ、続けて3度裏返ったら負けというルールでやってみたところ、これがツボに入りました。そうだよこれがゲームだよ。結果が不確実で、先がどうなるかわからなくて、見届けたければ続けるしかないこの感じが欲しかった。ひとりで興奮して、ぶつぶつと実況のような何かをつぶやいている様子は客観的に見て頭がおかしくなったと思われそうだったので、家に誰もいないときか、家族が寝静まってのを見計らって、妹と共同の勉強部屋にこもってカードをいじくる、完全な密室のお楽しみになったのです。

 

……実際、このときはゲーム的孤独のために頭がおかしくなってました。自分だけの楽しみを見つけた喜びであると同時に、誰にも知られるわけにはいかない秘密でした。夜更かししすぎて朝起きられなかったり、ときどき思い出したかのように笑ったり、同級生の遊びの誘いを断ってそそくさと家に帰ったり、チラシの裏にトーナメント表を書いて線を数えたり(2の乗数を知らんかったので)、夏の高校野球参加校数は2の乗数ではないのにどうやってトーナメントを組んでいるのか親父やおかんに尋ねて何を言っているのか気味悪がられたり、覚えている限りでも奇矯な言動が目立つ子になっていました。

 

そんなささやかな秘密も何か月続いたやら。おかんはわが子が何をしているのか見てないようで見てるんですね。

 

「あんた、夜中に起きだして何やってんのん?まさか、スケベなこと想像してあそこいじくってんのとちゃうやろな?」

 

勘違いも甚だしい。年頃の少年少女が親に内緒でこっそりやることの第1位には違いないですけどね?チリッチリの毛が生えてどうなってるのか気になって必要以上にこねくり回すことだって、そりゃあるかも知れませんけどね?小4で●●●ーやった人ってどんくらいいるの?あ、うちの妹は6年生の頃に友達と回し読みしていたであろうエロ記事満載の雑誌を隠してあるのを私が見つけておかんにチクってやりました。あれ以来妹とは疎遠です。

 

書き始めた時はこんなに長くなるとは思いませんでしたが、色々覚えてるもんですね。今回はこの辺で。