working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

テレビゲームと親父と私(6)

gentlyは3年ぶりにラノベを買いました。

 

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この5歳児、やるで

テレビアニメ放送中の「本好きの下剋上」。異世界チートものは「GATE」前後からKADOKAWA系列でアホかと思うくらい数多くの劣化コピー類似作品が世に出て、一時期テレビアニメも似たようなしょうもない話の狂い咲きで制作会社のスタッフを疲弊の彼方に押しやっているのではないかと思うくらいおなか一杯なんですけど、一筋縄ではいかない異世界ものは捻りが効いてて面白いです。本作は日本の女子大生が事故で亡くなった結果異世界に転生し、前世の知識を引き継いだものの病弱な幼女になってしまったために大体のことが思い通りにいかず、めげそうになりながらもある目的のために奮闘努力するお話です。

 

まだ100ページほどしか読んでませんが、テレビアニメは主人公・マインの現代的衛生意識からくる乾いた笑いを極力削って(残したのは「簡易ちゃんリンシャン」ぐらいでしょう。薬師丸ひろ子を思い出した方は同世代確定)、子供でも見られるようにしてあるのがよくわかります。ラノベ特有の違和感を覚える「下剋上」という表現にも、平民の娘から知識階級への成り上がり以外に色々な意味がありそうです。筆致の巧拙はあれど、魂が込められたお仕事のひとつだと思います。

 

ところでTOブックスの通販サイトから自動返信されてくるメールフォームは滋賀県の高級米屋と同じでした。sales forceかな。

 

全6回のシリーズが今日で終わります。ラフ原稿を起こしてから半年ほど、この間の大幅な加筆のせいで1回分増えました。じゃあ一緒に見届けようか、gentlyの家庭という存在の結末を。

 

職場復帰した親父はまた、酒に手を出すようになりました。

 

一度は死ぬような目に遭ったのにそれでもやめない人のことを世の中では狂っているとか正気の沙汰ではないとか言いますけど、今から思えば命に関わることも十分に自覚したうえで親父は荒れていたのだと確信します。何もかもが嫌になって投げ出したくなったのだろうと思います。アインクラッド以降のSAOなんて「若年性ゲーム障害」とでも名付けられるくらい正気の沙汰ではないですやん?お話になったとたん美化されるんやから不思議なもんやでほんまに。だから私はSAOが嫌い。ついでにSAO好きとか公言してるガキンチョはもっと嫌い。あ、でも「アクセル・ワールド」は好きやで?

 

残念ながら私は親父の仕事ぶりがいかほどのものか、何度か事務所に連れて行ってもらったこともありましたが全くわかりませんでした。事務所などはまだ安全なほうで、日常化した談合現場や木で鼻をくくったような対応をする官公庁、言うことを聞かない従業員の相手など、毎日胃がヒリヒリするような感覚を味わっていたのではないかと思います。経営の真髄に触れるには幼かったというのもありましたが、何より私は、甘やかされて育った子供でしかなかったのです。

 

飲酒後の親父は口達者な障害者でした。以前のように暴れまわるだけの体力も気迫もなく、帰宅するとただひたすら悪態をついて家族を不快にさせ、体の状態を呪い、下の管理もできないくらい正体なく酔っ払うのです。外に放置しておくと大声で喚き散らすのでやむなく家の中に引き入れるのですが、手がつけられないくらいに汚れていて、それでもおかんは泣きながら親父の世話をするのです。

 

もはやゲームどころではありませんでした。

 

この話を日常的に語るような趣味はありませんが、こうして文字に書き起こしながら思い出すのは「魔法少女まどか☆マギカ」です。最初は誰もが、強弱はあるかもしれないけれど人のために役立つ仕事がしたいとか、誰かのために頑張りたいとか、美しい思いや志を持って物事に取り組むのだけれど、その過程で襲ってくる嫌な出来事、悲しい出来事によって心が汚され、その限界を越えたときに自分自身が周囲に害をなす怪物に変わり果てる。親父は比類なき魔女となり、再生不可能なまでに家族の信頼を粉々に叩き割り、自宅に捨て置かれる孤独な存在になっていました。

 

あるとき、そんな親父と私が一晩共に過ごさねばならないタイミングがありました。おかんと妹がどうしても嫌がり、親戚の家に逃げ込んだというのにおいおい私だけ置き去りかよ。なし崩し的に親父との国交が再開しただけの私は内心ネグレクトを再開したくてウズウズしていたのに。

 

「ラーメン、作ってくれよ、腹減ってん」

 

料理番のおかんがいない食卓で、親父がねずみ棚(お勝手の土間に設えた食品用の押入をうちではこう呼んでいました)から取り出してきたどん兵衛を私に差し出して、酒臭い息を吐き、のっそりした動きで腰掛けつつこう言いました。右手が不自由なので、外装フィルムも紙製のフタも、ましてや粉末スープの袋など、自分で開けることができません。仕方ないので必要な作業を終えてお湯も沸かして3分待つよう言い渡したのですが、相当きつく酔いが回っているのか、お湯を入れた直後から食べ始め

 

「なんやこれ、食えるかいこんなもん」

 

多少は利く左手でつかんで、流しへバーンと放り投げたつもりがその上の窓に当たり、湯気と汁のコラボレーションが見たことのない奇怪な模様を硝子戸に描きました。

 

ロールシャッハ・テストのようなそれを見た瞬間、これまで親父から受けてきた折檻の数々、すべての楽しい思い出を上塗りして余りある飲酒後の蛮行、家族への暴力が、いま目の前で展開されたわけのわからない状況へ収束し、私を一つの行動へ駆り立てました。

 

「めしはええわ、ゲームしよら、こっち持っ

 

鼻柱をへし折るつもりで渾身の右ストレートを親父の顔に叩き込んだらまるで椅子に腰掛けた人形のように膝関節が曲がったまま後方へ昏倒し勢いづいて馬乗りになり積年の恨み辛みを拳に込めてどれくらいの間だったか顔面を殴り続けたところ

 

「わかった!わかった!堪忍!すまん!許してくれ!」

 

もうこんな親父はいないほうが家族のためになるのだと信じて何を言われようと半殺しに仕立てるつもりだったのですが、あまりに悲しそうに懇願するのが哀れで、上ずった声で許しを請うほどにまで弱った親父を何の救済もない状態に叩き落した自分の姑息さが嫌になって、なぜこんなことになったのかわけがわからなくて、振り上げた拳をどこに下ろしてよいかもわからなくて、最後に親父の横っ面へ張り手をかましたあと、いささかも収まらない怒りの矛先は場違いな方へと向きを変え、おもむろに立ち上がり、人を殴ったあと特有の痛みと、酔っ払いの顔脂の異様な酒臭さがまとわりついた手で仏間のテレビ棚を開き、北条家の家紋に似た金色の印とグリーンが基調のソフトパッケージがシワになるほど鷲掴みにして、

 

そんなにやりたかったら一人でやれ。

 

倒れたまま起き上がろうとしない親父に思い切り投げつけて家を出ました。締め切ったはずのお勝手から、聞いたことのない、だらしない号泣が聞こえてきましたが無視しました。

 

中2の秋から冬。これが意識のある親父と最後に交わしたやりとりです。

 

私は自宅を出て、しばらく前に大阪から私の地元へ越してきた伯母の家(以前登場した花札の家とは別です)に転がり込みました。そこしか救いを求める場所がなかったからです。おかんの姉にあたる伯母は生涯独身を貫いた人で、妹にも私にも平等に優しく、時に厳しい人でしたが、そのときは何も言わずに放っておいてくれました。

 

翌朝、私は何食わぬ顔で自宅へ戻り、ほとぼりが冷めるのを待っていたおかんと妹が戻り、顔面を腫らした親父を見て何を思ったのかは知りませんが、誰も何も追及せず、誰も何も裁かれず、ただの生活単位として家族という形式を採用しているだけの寄り合い所帯になりました。学校へ行ける心理状態ではなかった私はおかんから錠剤を半分に割った睡眠薬をもらい、まさしく泥のように眠りました。

 

もうこの家は無理だ。私は、おかんの我慢をこの一事で台無しにしたのかもしれない。素知らぬ顔で人間4体が家族のようなふりをしてるけど、一度切れた堰は容易には戻らない。誰が悪いんだろう。どう考えても親父だろう。もしかして、我慢しなかった私が悪いのか?今まで何度同じことを繰り返してきたと思っているのか?今ここで終止符を打ったつもりの私を、おかんは、妹は、我慢が足りないと言って責めるのか?食事の味がわからず、会話もなく、ツモ切りが続く深夜の雀卓のごとく淡々と状況だけが進んでいきます。

 

中2の冬、通っていた学習塾を切り替えました。おかんの一存で私に何の相談もなく決められたことでしたが、もう何も言いませんでした。そこはとにかく厳しい塾で、私の人間性など無視するかのように回答を間違えればすさまじい叱責とともにペンが飛んでくる修羅場でした。そのころにはスーファミと向かい合う気力もなく、スーファミ本体とソフトは従業員家族の手にわたり、そしてどこから出てきたのか大昔に捨てられたはずのゲームボーイが突然目の前に突き出され、おかんはまるで神官のような厳かさを湛えて告げました。

 

「どうすべきか、わかるな?」

 

あ、スーファミの代わりにこれで遊べってことですね?いやーだいぶ前に捨てたって聞いたからとっくにないもんだと諦めてたんですけどさすがおかんは優しいですね!

 

そんなわけはなく、受験勉強を控えた私は先ほどの学習塾でごく短期間のうちに人格が大幅に矯正されたため、それを持って地元のファミコンショップへ行くことになりました。

 

みんな知ってる?ファミコンショップ。当時はいろんな地域にごく小規模ながらファミコンソフトを取り扱うお店がいっぱいあって、十中八九趣味の延長でゲームを商材にしていた人たちがいました。中古品の買取で思いつくのはまずファミコンショップで、その後のインターネットとブックオフの台頭でほぼ姿を消した、昭和末期から平成初頭にかけての徒花のような存在でした。

 

私の地元のァミコンショップは1軒しかなく、近隣の悪童は大体そこへ集まって店主のお兄さん(に見えたんだけど実は結構年季入ってたかも知れない)と駄弁ってました。その兄ちゃんは能面のようになってしまった私の顔と、箱に入ったゲームボーイと、すでにパッケージと解説書が失われたソフトケース入りのカートリッジを交互に眺めて、こんなことを言いました。

 

「わかった、おっちゃんが買い取ったる。これだけ持ってたらよう遊んだやろし、いろんな思い出もあるやろ。それでもここへ持ってきた理由は聞かん。でもな、これだけは忘れんといてほしい。君が売りに来たこのゲームは、君がしんどかったときとか、いやな気持ちになったときは必ず助けてくれたはずや。ゲームで勉強できへんようになるとかいう大人おるけどな、僕らがどれだけゲームのおかげで気持ちがすっきりするか、救われてるかを知らんねん。せやから、ゲームを嫌いにならんといてほしい。いつか思い出したらここに来たらええ。ゲームは逃げへんし、そのときはまた君を助けてくれるやろ」

 

親父を殴った時ですら心が動かなかったのに、私はこのとき店頭で涙を流したのを覚えています。かろうじて「お願いします」とだけ言ったかな。あのお兄さんかおっちゃんか、今はどこで何をしてはるのやら。一言一句正確ではないかもですし、記憶の美化作用が大いに働いていることを差し引いても、大意は外していないと思います。失礼ながら、子供相手とはいえここまで心揺さぶる言葉が出てくるような人には見えなかったのですが、案外この世界には教養人が多数いるのかもしれない。そしてこの言葉は私がフワフワワクワク40になった今でも真実であり続けています。

 

査定表を見て驚きました。パッケージが失われている「役満」が1,800円。「アレイウェイ」が1,500円。ゲームボーイ本体は1,000円。ソフトが本体の価格を上回ることもあるのか、もしかしてだいぶ甘めに査定してくれたのではないかといろいろなことを考えながら、現金に変わった思い出を握りしめて、路上の車内で待つおかんに手渡しました。

 

「ほらな、いつかこんな日が来るのは分かっててん。あんたもゲームにほとほと飽きてしもたやろ?あんなん所詮は子供のおもちゃや。あんたはこれから勉強して他の子より賢くならなあかん。それをあんたが分かったんやから、分かったんを今身をもって証明してくれたんやから嬉しいわ。もう二度とあんなんに関わったらあかんで。アホになるさかいな」

 

おかんが運転しながらさらに畳み掛けるように何か言っているような気がしましたが、うわべだけ頷いて聞き流してました。おかん、もといこの女は人の心の機微にあまりにも鈍感であるがゆえに、身近で最も理解と手助けを必要としていた親父の傷心を癒すどころか傷に塩を塗るような言動に終始し、家族があてにならないと悟った親父が酒に逃避し、裏返しに暴力を受け続けたものの、ただそのことを純粋な悪意と不幸が降りかかっただけの事故でしかない、因果などないと思い込んでいるのではないか。よもや自分に負うべき責めがあるなど考えもしないのではないか。そして口では親父を呪いながら、なぜいつまでも親父と連れ添っているのか。そのことをいつか我々子供のせいにするのではないか。また怒りがこみ上げそうになりながら、これからはおかん相手に我慢することにしようと決めたのでした。

 

以上が、テレビゲームと親父と私、時々おかんをめぐる、長いようで短い数年間のエピソードです。親父はこの5年後に他界し、今となっては当時の親父がなぜ酒をやめられなかったのか、ゼルダが一時でも親父の気持ちを紛らすことができたのか確かめるすべはありませんが、この過去から連綿と続く今の私はゲームと酒とアニメがなければ生きていけない体になってしまったので、間違いなく親父の血を受けた子として、少なからず親父に同情しながら生きています。意思決定の遅さを経営判断と勘違いしているような片田舎の一流気取りの中小企業のサラリーマンごときですら毎日殺意と多忙に押しつぶされそうな環境で、果たしてど田舎の建設業、中小企業の社長のストレスがどれほどのものか私には知る由もありません。結局、甘やかされたガキなのです。

 

書き終えた感想。いささか以上に親父とおかんの名誉を毀損する内容だったかも知れないのは草葉の陰で許してもらおう。しまったおかんは健在やった。いつだったか、おかんが「うまく行ってるように見える家庭にもな、大なり小なり表に出されへん不都合なことは、あるもんや」と言ってたけど、うち以上の不都合があるのか読んでくれた方に尋ねてみたい。

 

おかんの我慢のきっかけが私や妹であったとしても、あの状況は我慢してはならなかった。不幸自慢と思われたくないが、こんな親父が家にいて家庭もへったくれもないよ。そりゃね、人間は少しずつ忘れる生き物だから、何があったところで近しい人間同士はいつか許しあって元の鞘に収まっていくものかも知れないし、事実親父が他界した時はそんなことをみんな忘れかけていたけど、私には許し難かったし、事実親父が他界するまでの5年間は一度たりとも気を許した覚えはないし、それが悪いことだったとも思っていない。

 

お金があってそれなりに育ててもらえたことだけでも恩として感じるべきだという人もいるかも知れない。でもそれこそが「大なり小なり」というものではなかろうか。貧乏でこのザマだったらたぶん一家心中してた。どこかでぎりぎり人間としての平衡感覚が取れてしまう余地があったから、たまたま家庭として続いただけで、生きたまま育てられた代償がいかほどのものか、一体何をどれほど失ったのか、私たちには測る尺度すらないのだから。

 

あとは読者の皆様の判断を待つとしましょう。3万字にわたる長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。