working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

戦後75年に寄せて真面目に書いてみた

日ごろから良質なインプットなくして良質なアウトプットは不可能だと思うgentlyです。前々回に触れた感受性低下の問題は単に加齢に起因するものとは限らず、連綿と続く毎日の中で、何に触れ、何を感じたかを覚えておくこと、覚えられなければ記録することによって回避できます。使わない筋肉が衰えるのと同じで、心も動かさないと衰えるのです。

 

「年を取ると涙もろくなる」というのは本質を言い切れておらず、色々な経験を重ねて涙も涸れ果てるほど感情がすり減って心が動かなくなることを年を取る=老化するというのであって、年を取っても泣ける人はちゃんと心を動かしてきた人なのです。西田敏行さんはほぼ少年の心のままなんじゃなかろうか。

 

だから私は「メイドインアビス」第1話の終盤で、オースの夜明けとともに坂本真綾さんのナレーションでこの街の成り立ちを聞いたとき、背筋が痺れるような感動を覚えたことをもって「あー、まだ私の感じる心は死んでいない」と安心したのです。やさしさの中に不気味さを湛えたその声が直接語らずとも、後に起こる少年少女の苦難を思うだけでぼっろぼろ泣きました。親父が死んだ時ですら泣かなかったのにな。

 

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買ったなら大いに喧伝自慢すること

ところで明日は8月15日、終戦記念日です。

 

例年、おはじきをドロップと思い込んで誤飲しかかる幼女の衰弱した顔を思い出すたび胸が引き裂かされるような思いをしていたところ、最近は広島のとある女性が厳しい時代を生き抜いた物語が新たな戦争映画として登場しました。「九つの嶺に守られとろう……」と細谷佳正さんが呉の名の由来を優しく語り始めるところで、なにがどうとうまく説明できないんですけど、やはりぼっろぼろに泣いてしまうのです。単に都市の由来に弱いのか。

 

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映像は買わなくても毎年見られそう

私にはありきたりなことしか言えません。戦争などもってのほかです。超大国群に無謀な戦争を仕掛けなければならなかった当時の世界情勢にまつわる知識や理解とは関係なく、もう二度とあのような悲しい出来事を繰り返してはならないと思います。

 

そのためには、たとえ戦争を知らない私の心を揺さぶったのが架空の物語であったとしても、そして原作者が戦後生まれであったとしても、いつか戦争を知らない者たちだけで戦争を語らねばならない時が来ることは間違いないわけで、その記憶は過剰でも過少でもなく実態と等価でなければならない、つまり実体験の有無に関わらず戦争とはどのようなものであるか、広く国民が認識できるイコンが必要です。その役目は綿密な取材にもとづいた所産であるコンテンツにしか果たせないと思います。

 

国内外に戦争と平和を語るモニュメントが数多ある中でなぜあえてコンテンツなのか。理由は簡単です。モニュメントは一定以下の知識階級に理解しがたい難しさがあるため国民共通のイコンとして成立せず、往々にして政治的思惑にもまれ、真偽定かでない主張に利用されてきた歴史があるからです。

 

具体例を引き合いに出すと諸方面からいろいろ言われそうですが、例えば原爆ドームを見て、原子爆弾の悲惨さ以外に何を感じ取るでしょうか。なぜ米国は核兵器を運用し、なぜ広島に投下したのか。なぜ日本はこんなことになる前に何もできなかったのか。私はあの元建物を見るたび、悲しみが押し寄せてきて答えの出ない問いかけ以外何も生まれてこないのです。

 

さらに靖国神社西南戦争以来、現代日本国家が形成される過程で悲運の死を遂げた英霊が眠っているとされていますが、そこに遺骨はなく、ただ慰霊を促す構造物が建っているのみです。千鳥ヶ淵との違いなんてどれほどの国民が理解しているでしょうか。そしてこの季節が来るたび、政治家が参拝したかどうかについていちいち報道が取り上げ、諸外国とくに国家主席のいる大陸と政治的混迷を深める半島南側の顔色をうかがうのです。おかしいと思いませんか。

 

それは戦争の一側面、被爆国や敗戦国としての日本を伝えるに十分な役割を果たしていますが、総じて戦争とはどのようなものかを理解したことにはならず、受け止め方を誤れば新たな国家主義思想を芽生えさせる苗床にすらなりうると思うのです。

 

私は国際関係や経済や政治のレベルを含め、戦争発生のメカニズムを網羅的に理解する必要があるなどと言っているのではなく、民衆レベルの目線で見たときの戦争は、悲惨な部分もそうではない部分も含めてどうだったのかを知っておくことで初めて「戦争などしてはいけない」という心からの共感を得られると考えています。その役割を当面は「この世界の片隅に」が背負うことに賛成です。ただし、これによって片渕須直さんが今後「BLACK LAGOON」のようなアングラなピカレスクを手掛けられない空気に持っていかれるのは、ある意味思想統制と変わりがないと思います。日本はそうなりがちです。「日本人は」といったほうが正確でしょうか。

 

そのいっぽうで、あの時代の日本が様々の局面において戦争を選ばざるを得なくなる過程を正しく学び、正しく広める人材が必要です。国民全体での戦争と平和に対する知識の底上げはこれまでも国家や自治体が取り組んできたのかもしれませんが、教わる側の納得を無視した反戦思想の影響が色濃く、なぜ戦争をしてはいけないのか肌感覚で理解できていない若者が増えているように思います。これは危険な兆候です。

 

最終外交手段としての戦争を容認する国になること、つまり憲法を改正して国の交戦権を回復することは、あの戦争から得た教訓を無にすることです。私は交戦権と自衛権は全然別のものだと思います。侵略国となりうる隣国からの本土防衛すら満足にできない状態を脱却するために主権国家として自衛を目的とする最低限度の武力を持つことと、いつでも切れる外交カードとして戦争をちらつかせ譲歩を要求することは根本的なレベルで意味が違います。それこそ大陸と半島のやってることと変わりがない。

 

そしてそこまで考えたところで、ふと歩みを止めて思うのです。あの時代にもきっと同じような考えを持った人たちがいて、国家防衛のために邁進した結果があの戦争だったのではないのかと。