working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

灰色の春の話

私が高校3年になった春、先生は学校を去りました。

 

1995年1月14日は恐ろしく底冷えのする日で、電車で約1時間、駅から徒歩15分かけて山の上の受験会場へ向かいました。校歌で何度もこの山のことを歌ってたんだなと卒業してから気づいたのは置いといて、中庭が人工芝になっている、廊下に毛氈が張ってある、教室にエアコンがついている、ど田舎の中学校から出てきた私はそのひとつひとつに感動していました。その日までの1年半は不毛な中学生らしい遊びから遠ざかり、普通の暮らしを忘れるほど受験勉強に没頭していたので、試験問題は簡単でした。

 

1月19日は平日でしたが学校を休み、移動の電車賃がもったいないというおかんが市内で買い物をしたいというので車に乗って学校に向かい、レンガ風校舎の壁一面に張り出された中に自分の受験番号が記されているのを見ても特に感慨がなかったのを覚えています。好きなことを何もかも放り捨ててやったんだからこれくらいの成果が出て当たり前だと思っていました。入学後のどのタイミングだったか、全受験者中の席次が2番だったことを聞かされて、あれだけやったのに2番かと逆にがっかりしたものです。

 

この間に神戸の長田が火の海になった大地震がありましたが、機会を改めます。

 

担任は、本職が民俗学の研究者でかつ僧侶という変わったキャリアの先生でした。飄々としてとらえどころのない感じのする、決して怒らない、優しい先生でした。副担任の先生は大学を出て数年の女性で、英語の中でもオーラルと呼ばれる科目を担当しました。クラス編成は男子19人、女子28人の合計47人。うち男子10人は4限が終わると「練習」のためにいなくなり、3年間クラス替えのない特殊な環境でした。

 

あ、いつぞや話題に出した魔女っ娘はすでにこの中にいて、メガネの大きい子だなぁ、長い三つ編みだなぁ、なんだか古風な子だなぁと気になってました。なーんだ、もう好きってことじゃん。

 

「練習」の10人を見送った後の男子9人はすぐに仲良くなりました。1限70分という密度の濃い授業が毎日5限か6限まで続いた後は、連日ふもとの雑貨店で買い食いしながら駄弁りました。夏が近づくと10人のために応援団を編成し、暑い中で体を動かすことに不安のあった私は遠巻きに見ていましたが、1996年の春には結局そこに加わり、毎試合ごとにバスの中で愉快な先輩たちとやいのやいのしながら親睦を深めました。

 

担任の先生は日本史を受け持ち、2年間で3年分のカリキュラムを終わらせるためにそれなりのスピードで展開しましたが全く苦になりませんでした。むしろ知れば知るほど面白いなぁと思える授業で、教室全体の学習する頭脳がそれなりに高いレベルで選抜されていたことを意味するのでしょう。その中でも私は先生の授業をよく吸収し、記憶力科目としてイメージされやすい日本史の面白さを一番理解していると自負していました。ほかのどの授業よりも、担任の先生の話はよく聞き、よく質問しました。話しぶりが軽妙で分かりやすく、事象を誤らず記憶に残すという意味でも非常にいい先生でした。

 

そんなクラスの空気が変質したのは2年に進級した頃です。1年間クラスを引っ張って来た学級委員が交代を命じられ、私にお鉢が回ってきました。そのことが影響したのかどうかはともかく、9人の中でもうひとり、体を動かすことが得意な、リーダーシップを発揮しやすいタイプの男子がいて、彼を中心とするコミュニティが形成されました。そこには何人かの女子も混ざっていて、現代風に言うと「上位カースト」というものの始まりだったのかもしれません。

 

受験の叩き上げとはいえ、私は決して勉強一辺倒というわけではなかったのですが、彼らの様子を見ているとクラスのコミュニティとして上位を維持していても、学業に関してはリーダーシップを張っている男子を除いて必要最低限をぎりぎり維持しているかどうかのレベルに落ちていました。そう、落ちていた。県内屈指の進学校でありながら、らしからぬ振る舞いがちらほらと目につき始めていましたので、肌が合わないというか、ちょっと関係が深まったらこれか、何に安住してるのか知らんけど色んなことがグダグダになるんやなという失望が日に日に増していった時期でした。

 

あるとき、彼らの中で授業中に居眠りをしていた女子がいて、そのことを最初に注意したのは担任ではなく、副担任の先生でした。居眠りした女子がどういう生活環境にあったかは知りませんし興味もありませんが、少なくとも私たちのクラスでは中間・期末試験の時期が近づくと連日連夜遅くまで勉強し、体がもっとも成長する時期にもかかわらず2時寝6時半起きが常態化していましたので、居眠りしてしまうこともある程度許容されていた側面がありました(むろん寝てたら叩き起こされますが)。私の身長は入学後まったく伸びなくなりました。関係あるかなそれ。

 

しかしこの女子に限ってそれはないと私は思っていましたし、以前から頭の悪い(勉強ができないのではなく、頭が悪いのです)くせに人を見くびる態度が鼻につくので、たまには頭ごなしに注意されて鼻っ柱の一本二本折られときゃいいんだと内心ほくそ笑んでいたら、先生は居眠りの注意にとどまらずこんなことを言いました。

 

「北野さんさぁ、お化粧してるでしょう?校則で禁じられてるのを知らんの?前々から思ってたけど、いつまでたっても改善できんのな?こないだの小テストの結果も散々だったし、ちゃんとやってるの?お化粧覚えて人の気を引こうとしたって中身が伴わなかったら何の意味もないのわかる?こんなことも言われないとわからんの?高校生にもなって恥ずかしくないの?」

 

おそらく以前からふつふつと湧き上がっていたものが爆発したのでしょう。指摘された女子は佇立したままだんまりを決め込みましたが、私は普段から彼女に対して思っていたことを全部先生が言ってくれたので笑いをこらえるのに必死で、授業が終わって先生が教室を出るや否や「なんやあのブス!お前こそ化粧してるくせに頭おかしいんちゃう!」以下、ととのったお顔立ちから出てくるとは思えない、頭の悪さと単純かつ純粋な敵意をこれ以上なく露呈した罵詈雑言が飛び出しまくり、カーストの取り巻き女子がなだめすかしてその場を収めていました。くわばらくわばら。よく見たら実名出してるけどまぁいいや、こいつ大嫌いだったし。

 

その後、先生はまるで学級委員である私の代理戦争でもしているかのように、授業中も休憩時間もクラスの「不良分子」に向けてああだこうだとお小言を言うようになりました。ときにお小言の指摘が細かすぎることもあり、というか特定の生徒を標的にでもしているかのように付きまとっているとの報告もあったようで、こうした行動が徐々に「奇行」として生徒たちの間で認識されるようになりました。

 

私が居合わせた中でこれは最早異常であると思ったのは、お小言がヒステリーになり、生徒を叱り飛ばすような言動に変化したことです。ただ私が異常性を感じたのは先生の激高ぶりではなく、ここまで言われても一向に改善の兆しが見えないカーストの行状でした。

 

真面目な先生でした。それだけに一度目についた物事への執着も強く、是正されるまで何度でも指摘する人でした。やがて聞こえてきた話によると、職員会議中に居眠りをしている。急に泣き出す。他クラスの授業中に立ちくらみする。典型的なうつ病の症状でした。これはカースト側が先生に嫌がらせをしているのではないか。それとわかる嫌がらせではなくとも、何か言わずにはいられない振る舞いをあえてしているのではないか。

 

年末。副担任以外の先生が受け持っていた英語の授業が突然カットされ、担任の先生が私たちに向けて講話をしました。人間は間違える生き物です。時に失敗もするけれど、同じ失敗をしないように気を付けることができます。それはいくつになっても同じです。その時私たちが心掛けねばならないのは、許す心と理解する心です。私が怒らないのは、怒りを現したところで、よくなることがないからです。それでもやはり人は怒りを抱きます。私も今、怒っています。切々と、そのようなお話をされていました。何のことを言っているのか、その場の全員が理解したはずです。

 

授業をカットされた先生もめっぽう勘のいい人でしたから途中で口を挟もうとしたのですが、担任の先生は「黙れ!」と聞いたことのない大音声で静止し、介入を許しませんでした。先生は私たちに変化を促している。私もその必要を認めている。だけど、みんなにはそのことが理解できない。ただひとり、若い女教師が錯乱しているだけだ。その認識を脱することができなかったのです。

 

1997年の年明け直後、私ともう一人、女子の学級委員が副校長の呼び出しを受けて、副担任の先生の状態変化についてヒアリングを受けました。先生がおかしくなったのではなく、クラスがおかしくなったのです。私はそう言いたかったのです。しかし、より冷静な女子の学級委員が的確に説明してくれました。そうかもしれない。でも違うんだよ。思いながら何も言えず、表向き見えている現象通りの内容が学校のナンバー2に伝わったことになります。

 

3学期末の試験で目を疑うような問題が出ました。

 

   問 担任教諭の氏名を漢字で書きなさい。

 

見た瞬間、私の頭の中で、今校内で起こっている事象と、保護者からの何らかの反応と、それへの担任としての対応と、ほかに生徒のレベルでは見えない何か、責任という言葉に代表される何かと結びつき、形の伴わない嫌な予感として受け止められました。いったい何の意図があるのか。これを間違えるとどうなるのか。私たちの何かが試されているのか。色々なことを考えました。そして、何があっても間違えてはいけないという結論を得た問題にもかかわらず、私は間違えました。大好きな先生なのに、漢字が書けませんでした。お名前に2回出てくる「しめすへん」を「ころもへん」にしてしまうという、信じられないほど初歩的なミスでした。

 

高校2年の通信簿を受け取って、

短い春休みをつつがなく終えて、

持ち上がりで高校3年になって、

急な坂の山を登って登校したら、

 

担任も副担任もいませんでした。

 

学級委員の立場としてクラスを把握しているはずの私が、私の意に添わぬ結果を伴うであろう報告を副校長にしたこと。クラスの退廃した空気を改めるために何らアクションを起こさなかったこと。先生に異変をすぐ知らせなかったこと。そして、試験問題を間違えたこと。もしかするとすべては純然たる大人の世界で決まったことなのかもしれないし、私がどうにかしたところで状況は変わらなかったのかもしれない。そこまで分かっていても、やはり、強烈な自責の念が迫ってきて、嘔吐しました。私は、私たちは、2人の大人の人生を変えてしまった。悪いのは私たちなのに、とんでもないことをしてしまった。

 

以来、去っていった副担任の先生について相変わらず悪く言いつつ、担任の先生も去ったことに何の直感も得ていないクラスメイト達には人間の心がないのかと思い始め、学年と一緒に学級委員の役職も持ち上がった私は、思い切り彼らを憎悪するようになりました。

 

憎悪の対象から外れていたのは、中学以来同じ塾から一緒に入学した数人のクラスメイトと、私の前に学級委員をしていた男子と、感受性の高さとメンタリティがいつもちぐはぐな女子と、魔女っ娘でした。特に魔女っ娘は良心が人の姿になったような優しい子で、副担任の先生が学校を去った後も連絡を取り合い、一緒に出かけたりしてお話をしていたそうで、「先生はあんな人ちゃうよ」といつも私に言ってました。この子の優しさは私の見えないところであの先生を助けていた。きっと私のことも助けてくれると思ったのだったかどうだったか、彼女への好きを確信した瞬間でした。そして今、担任だった先生はどこでどうしておられるのか。すべては不可逆の時の彼方です。

 

また長い回想をしてしまいました。何でこんなことを思い出したのか。

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生き方なんだよな、結局

 

首相が辞任されると聞いて、あべつながりで阿部謹也先生の名著を再読するため、さらにあべつながりで安倍文珠院の真鍮製の栞を手文庫から出してきた瞬間、「あれは書いておかないといけない」と記憶が電流のように体を駆け抜けたのです。担任の先生がどんな理由で、いつごろ下さったのか忘れてしまいましたが、文殊菩薩のありようのごとく智慧を正しく運用できていない現在の私をご覧になったらどう思われるのでしょう。お会いしたい気持ちもありながら、回想に記したあのときのことと、ハート形土偶のレプリカをいただいたときも満足にお礼が申しあげられなかったことも含めて、きちんとお話をしておきたいなと思っています。

 

魔女っ娘はあの頃の魔女っ娘のままでいいや。