working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

未だに少しも「愛してる」が分からない私より

※2020年9月18日より公開している劇場版のネタバレはありません。ないと思う。少なくともあらすじは何も書いてない。ただしテレビシリーズについてはこの限りではありません。ご了承いただける方は筆者を小馬鹿にしながらお楽しみください。

 

先週月曜から最寄り駅かいわいの自動販売機の缶コーヒーがすべて「あったか~い」になりました。電車の冷房も送風運転に切り替わりました。そのせいで毎朝滝のような汗を流しておりますgentlyです。暑がりにとっては真夏より今のほうが厳しい季節かもしれません。クールビズは今月いっぱい続くので首周りは涼しいものの、この時期に半そでシャツを着ていると奇異の目を向けられそうで自重しています。

 

ところで缶コーヒーです。ドリンクベンダーはなぜ購買客の選択肢をいっぺんに奪うのでしょうか。寒くなってもキンキンひやひやが飲みたい人はいるでしょう。暖房で体が火照ったのを冷ましたい人もいるでしょう。てか今はまだ寒いうちに全然入らないでしょう。気温も湿度もちょうどいい時期なのになぜ、示し合わせたかのようにつめた~い缶コーヒーが姿を消すのでしょうか。

 

……こういうことを書くと正論厨がわいてきて「コンビニで買えはい論破」と言われがちですが、出勤時間帯の近所のコンビニは官公庁とテレビ局の職員が怒涛のように押し寄せてきて、缶コーヒー1本買うのにレジ行列とか自分の生きている意味を疑いたくなります。

 

そんな、自販機缶コーヒーが一斉温暖化した月曜日の夜。

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京アニまつりの壁面の一番右の

 

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みてきたんよ

劇場版「鬼滅の刃」の封切り以降話題的にすっかり吹き飛ばされた気配ですね……上映中絶えず流れる涙を放置したせいで目の下がカピカピになり、あっという間に140分を駆け抜け、終映後もしばらく物語の世界から抜け出せず、なんばパークスから夢遊病者のようにふらふら歩いてたら家にたどり着きました。兵器として扱われていたあの少女が、時を経て身も心も美しく成長し、愛とは何かを追い求め続けた4年間の軌跡は見事に完結しました。

 

同じ少女でも14歳と18歳では当然ですが顔が違います。どちらにしても美しさのあまり私の目が焼かれるのは揺るぎないのですが。この劇場版でも随所に彼女の美しさがきらりと輝きます。4年間続いた戦争で数多くの敵を葬ってきた戦闘兵器の過去を持つ彼女は、代筆業を通じて人の心に触れる経験を積み重ねるうちに多彩な表情を見せるようになり、「愛してる」の言葉に込められる気持ちがどのようなものであるかを少しずつ知ってゆきます。

 

しかしその道のりは決して平坦ではなく、手紙を書く行為は人の気持ちを表現する行為であり、過去に彼女が殺してきた人間にも家族や恋人や友人がいたのではないか、その人たちにも伝えたい言葉があったのではないかと深く懺悔します。

 

この過ちに気づいてからの彼女の顔は、指示命令受諾一辺倒の機械的な印象が失われ、遅まきながら自我が芽生えたために深い憂いを帯び始めるのですが、これ以降の顔が私はたまらなく好きです。石川由依さんの「燃えていません、おかしいです」「燃えています」回想と現実が交互にヴァイオレットちゃんを苛むシーンの演技でご飯5杯は行けると思います。そして石川由依さんも好きです結婚してください。

 

テレビシリーズで私が一番推しているのは、前回(これね)書いた通り第10話に登場するアン・マグノリア役の諸星すみれさんの演技です。かれこれ20回は見て、素晴らしいの一言に尽きるところを蛇足で解説しようと思い出すだけで泣けてきます。夕暮れの糸杉の道でヴァイオレットちゃんにありったけの感情を爆発させるシーンは毎度心が激しく揺さぶられます。そんな少女の悲しみを受け止め、どこか事務的ながらも精いっぱい慰めようとするヴァイオレットちゃんの不器用な優しさと、憂いに悲しみが加わった彼女の表情は、なんて美しいのでしょう。石川由依さん好きです結婚してください。

 

女性声優にしか興味がないわけではありませんが(両刀という意味でもありませんが)ギルベルトの兄・ディートフリートをシニカルに演じる木内秀信さんの演技の揺れがたまらなくそそります。ヴァイオレットちゃんを兵器として使い始めた男がことあるごとに彼女の現状について嫌味と文句を言いつつも、未帰還の弟を思う気持ちがどこかで彼女とつながっているのか、私が彼女ならうっかり靡いたであろう優しい一面もあるのです。テレビシリーズ最終話の終盤に登場するディートフリートは、弟を失った気の毒な兄でしかなかったんだなと思わせる小ささを感じました。劇場版ではその揺れがより一層不安定になりますので皆様乞うご期待。そのことをカトレアさんがおっとそこまでだ。

 

今回の劇場版は「そこから始まるのか」という意外性と、ヴァイオレットちゃんのプライベートな物語ではあるのですが、代筆業としての彼女と関わる人々のありよう、時代と距離を隔ててなお心が通じ合うときの描かれ方が彼女の身の処し方とクロスしつつ、一つの時代の終わりが物語の終わりでもあるという、アクロバティックでありながら強引さは微塵もなく、想像を絶する美しい構成に私たちを引きずり込みます。夜のなんばからふらふら歩きながら、脚本の吉田玲子さんは神か悪魔に違いないと思いました。

 

ここまでテレビシリーズ(実は短期間ながらまとめて映画館で上映されていたのですが、ややこしいのでテレビシリーズで呼称を統一します)と今回の劇場版について書いてきたのを自分で読み返し、いわゆる感動作として「泣ける」ことを推したいのだろうか?と自問してみました。人の心の機微を扱う物語なので、それが何であるか自分ではなんとなくわかっているのに、他人に伝えるための言葉にし難い何か、言語を介しながらも言語ではない何かに触れることは必然的に涙を誘うのかもしれません。

 

それを描き出した京都アニメーションの総合力の高さを思うとき、あの不幸な事件で亡くなられた方々のことが無念で、一編の興行作品として以外の評価軸が加わってしまうことを否定できず、私は何を思い、感じ、泣いていたのかが分からなくなるのです。これは作品を世に送り出したクリエーター達が望まない源泉からの感動の押し買いであり、作品の評価とは言えません。

 

それでも私が言いたいのは、もとは名前さえない戦闘マシンだった彼女がヴァイオレット・エヴァーガーデンという名を与えられ、数々の苦難を乗り越えて美しく成長してゆく姿を最後まで見届けられたことに、得も言われぬ感動、父親が娘を送り出す感覚に含まれるのだろう寂しさと、どうか幸せになってほしいという願いが素直に涙として出てくるのです。

 

さて、「今回の劇場版」という言い方をしているのは、これの前に3週間というごく短期間だけ上映された「外伝」があるからですが、いずれエクストラエピソードと合わせて感想を書きます。それぞれに「けいおん!」OGが登場し、特徴が際立った演技を見せてくれます。両方とも今回の劇場版を見る直前に見たので頭の中が整理を欲しています。本日はここまで。