working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

YouTuberの社会性について

こんにちは。株主総会に続く役員変更登記、決算期以来続く法人税、法人事業税、道府県民税、市民税の確定申告がようやく終わりました。この歳まで税務の経験がまったくない人間を、実務のプロとチェックのプロがそれぞれ休職と定年退職でいなくなる年度にあえて回してきた親会社の采配にため息が出ます。

とはいえ、仕事を選べない意味で会社員はとても不自由ですが、定期的な給与が保証されていることは何物にも代え難いと思います。仕事はきっちりやるべきものであっても、命を削って夢や情熱を傾けるものとは限らず、生きるための手段に過ぎないことを、どうして誰も教えないのだろう。

日本は総じて仕事への傾倒を美化しすぎてますね。私みたいな怠け者が増えるからか。あ、今月は法定時間外を上回りました。10年前の2月3月に月90時間超えてたのに比べれば可愛いもんです。残念!

……究極、組織というのは飼い殺しできる人員が多いほど、本当の意味で追い詰められてはいないのです。なんつったってWikipedia読む以外にやることのない先輩がいるくらいですから。このコロナ禍でそんなことが許される業界は、たぶん他にない。

会社員のあり方に対するアンチテーゼ、友人の言葉を借りれば「生きていく上で本来あるべき安心感がなくても気にならない」一部の自営業、中でも「YouTuber」と呼ばれる人たちについて、私は相変わらずテレビの奴隷なのでまったく存じませんけど、今や10代から20代にかけてのインフルエンサーとして絶大な影響力を持っているのだそうですね。私は内心彼らを大いにみくびっていました。社会人としての所作や身につけるべき教養から遠ざかり、自由に生きることを標榜し、自分の好きなことに閉じこもって共感者を集め、その影響力だけでお金を儲ける存在に価値を見出す世の中は本格的に終わっているとさえ思ってました。

ところが、最近世の中の非難を集めている、とあるYouTuberのお誕生日会の深夜宴会について同じYouTuber・ゆゆうた氏が発したコメントを見て、少し考えを改めました。

 

 

会社員より会社員的じゃん。むしろ会社員の方が自由だわ。彼がいう共感者の多寡に応じて序列が決まる縦割り社会なんて、YouTuberを名乗る人々が本質的に嫌う性質のイデオロギーだろうに、影響力を持っている=業界の権力と化して他者に横暴な振る舞いを見せるのは醜いなぁ。酒の強要って、今どきそんなこと会社でやったらクビっすよ。昭和か。

彼はそのことを「人間の本質」と言っています。文脈から判断するに、社会性がないことをそう言っているようです。私の考えは少し違っていて、活動成果であるチャンネル登録者数を誇りたい気持ちというのは、相当社会性に依存した人間の心の動きではないかなと思います。

YouTuberの活動にはいろいろありますが、基本的なスタンスは創作の発表であり、わかりやすい例えをすると常にアイデアに飢えている芸術家のようなものです。活動そのものを楽しむ気持ちに加えて、活動を通じて社会的名声を高めたい(有名になりたい)、お金儲けをしたいという気持ちがある限り、そこには創作行為に対する強烈なプレッシャーがあります。私のようなお気楽会社員には想像も及ばない重圧です。

つまりは彼らも、会社員と形は違えど社会とリンクしようとしているのであって、個人の名前ではなく会社の看板で活動できる会社員と違って、身ひとつでそれらをやろうとしているわけですから、その禁欲性というか、創作に対するストイックな点においては十分社会性があると思うようになりました。ただ、創作の方向性を間違えるとへずまりゅうみたいなことになってしまうわけですが。

そしてひとたび創作の現場から抜け出せば一人の人間であり、そんな面々が集まって飲み会をやれば、禁欲のくびきから解き放たれた彼らは命懸けでやっているかもしれない創作の成果を誇り合い、マウントを取り合い、とことん動物的になってしまうことでしょう。実績を評価されて一定の役職についた人々が、会社業務の重圧から一時的に解き放たれ、まだ評価を得ていない、あるいは得られない部下に対して取りがちな態度とまったく同じ構図です。

このように、禁欲的に創作に打ち込まねば社会とリンクできない場面において、実はYouTuberは会社員よりも遥かに社会性を求められていることへの気づきをまとめてみました。なりたい職業に選んだ小学生のみんなも早く気づけたらいいね。会社員より圧倒的に不自由なことに。Wikipedia先輩のどこに社会性があるのやら。