working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

ソーシャルゲームの「ソーシャル」

ソーシャルゲームはなんで「ソーシャル」ゲームなのか。多人数がオンライン同時参加可能なゲーム全般をこう呼ぶのだそうです。廃課金者が多数出現する社会問題を指しているとばかり思ってました。もっとも、そのゲームの中で腕前を競い合い、順位やランクといった目に見えるステータスを身に着けることによって羨望や嫉妬の対象となるために、少しでも有利になるよう課金の道を突き進むのだろうことを思うと、大した違いはないような気もしますが。

 

この定義で行くとスマホゲームに限らず、今や据置機もオンライン化が当然の時代になりましたから、大半がソーシャルゲームということになります。ただ、オンラインゲームがすべてソーシャルゲームなのかというとそうではないらしく、あくまでゲーム内における業績を他者に誇示できる状態であることによって名声、名誉を得ること(まぁこれも社会性といえばそうなんでしょうかね)が重要なのだそうです。ああいうゲームの頂点にいる奴に社会性を期待する方が間違っていると思うのは私だけなのか。

 

ソードアート・オンラインシリーズのように、ゲーム世界で名声を勝ち取る人々は腕前のみによって評価されるかのように描かれた同作の主人公やヒロインをマネしたがる人がたくさんいる割に、その手段はゲーム内での鍛錬ではなく廃課金に収斂されていくのは、ただただサプライヤの罪深さでしかありません。

 

無課金では強くなれないシステムを構築するのは結構ですよ?悪いのは底なし沼に自分からハマっていく人たちなんですから。私が罪深いと思うのは、ギミックや謎解き等を重ねること、つまりゲーム内に設定された正攻法によって道を切り開くのではなく、以前は外道かチートと思われていた課金による能力強化を前提にしてしまったこと、課金しなければまともにゲーム参加できない状態を、ユーザーもサプライヤも当然と考える世界にしてしまったことと、ゲームクリアという概念を取っ払ったことで、社会的名声そのものをゲームの目的にしてしまったことです。

 

こうなってしまうと、いったいいくらつぎ込めば目的を達成できるのか、果てが見えません。そしてユーザーは浅慮であればあるほど、ゲーム内で名声を得るために課金せざるを得ず、その維持のために終わりなき課金を続ける羽目に陥ります。これは最早ゲームと呼ぶべきではないと私は思います。

 

旧ブログでも再三にわたって例に出してきたドラクエ女優・淡路恵子さんは「ドラクエは家で一人でやるもの」と事あるごとに言ってました。その後のオンライン化、スマホゲーム化がどのようなものか私は興味もやる気もありませんが、冒険し、モンスターを倒し、世界を救うに至るひとつの始まり、ひとつの終わりを私たちから取り上げ、クエストの始まりと終わりを延々と繰り返し、その優劣を他者と競わせるアジャイル的展開を「ドラクエ」と称することには猛烈な違和感を覚えます。単にサプライヤが収益目的でゲームを変質させただけのことを、あたかもユーザーの求めに応じてゲームを進化させたかのような売り方をするのもどうかと思いますが、それをプレイするユーザーが収益ラインに乗るくらいいるのですから、ビジネスの視点としては間違っていなかったということです。

 

東京財団政策研究所の早川英男さんが、スマートフォンを中心とする生活時間の使い方による国民の知的階層の分離が即貧富の差につながる、という指摘をずいぶん前にしていましたが、今や通勤電車も自宅もスマートフォンなしでは考えられない時代になりました。場所を選ばず見境なく色々なことができるようになった割に、その使い方はだいぶ両端に偏っているような気がします。

 

何が正しいのか?みたいな話はしません。行きつく未来が違うだけのことに正誤などありません。要するに早川さんは「スマホゲームばっかやってたら貧乏になるよ」と言ってるわけですが、どうしよう、駅メモ!も酒も据置ゲームもアニメも麻雀もやめられない私は貧民まっしぐらです。

 

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エジプトからやって来たティエちゃんです