working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

tとfをやめて思うこと

見ず知らずの人と情報交換することの信頼性を、今の世界の人たちはどう考えてるんでしょうね。SNSを数年前にやめた私の感覚では、発信者の専門家としての知名度が情報の信頼度とほぼ比例します。その一方で、同じ知名度でも芸能人は論外です。彼らの発信内容が正確であったとしても結果論であり、等価の情報を専門家が前後して発信しているパターンがほとんどです。

いや、いいんですよ。芸能人や有象無象がどんな情報を発信しようと、それを見る側が信じようと信じまいと。発信者の身元が定かでないこんなブログを先代から足掛け12年も続けてきた私ですら、見ず知らずの他人どころか十分付き合いの長い方々からしても眉唾ものでしかないことを自覚しています。日本の情報流通の自由度の高さゆえに許される遊びみたいなものです。

10日付の日経1面「データの世紀」シリーズ記事によると、新型コロナウイルスワクチンに関して「不妊・流産の原因になる」デマの発信者分析の結果、たった29人から拡散したそうです。そのうち医療に詳しい専門家は1人、それも医療関係者から猛批判を受けている人のようで、なんらかの科学的なエビデンスをもって発信している人間なんてほとんどいないのに広がってしまうこの状況は、インターネット開闢以来問題視されている情報への態度が教育されていないからでしょう。どれだけ機械が賢くなったところで、人間もそれと並んで賢くならないと、真に便利でよりよい世界は訪れないのです。

 

では「賢くなる」とは具体的にどういうことなのか。とても簡単です。

・知らない人の話は信用しない
・出処不明の情報を共有しない
・家の扉に掲示できるか考える

この3つを実践するだけです。

 

1つめなんて、インターネット以前からお父ちゃんお母ちゃんに教わるじゃないですか。知らない人について行かない。よく分からないことは相談する。うそつきはどろぼうのはじまり。ファミコン欲しいって駄々こね過ぎたら半殺し。どこの誰かも分からない人間の話なんて、面と向かっていれば信用しないのが普通でしたが、SNSに切り替わった途端、対人感覚がおかしくなるようです。

twitterは知らない人とユルくつながることを前提に開発されたツールとはいえ、ですよ。そのつながりがただちに信頼を意味するとは限らないのに、なんで情報を確かめもせずリツイートしてしまうのか。次の論点とクロスする部分でもありますが、SNSの情報共有が簡単に出来てしまうことも一因なのかもしれません。この程度のつながりで、うさんくさい情報を鵜呑みにする奴はいないだろう、いるとしたらそいつはバカに違いないと面白半分で真偽定かでない情報をぽいぽい放り投げることが遊びとして定着している中で、この高度な情報の遊びについて行けない人(正しくは、本人は遊んでいるつもりでも実は一部の悪意的なインフルエンサーの歯車にされているだけの人)のなんと多いことか。

 

2つめは、機器が発達する一方で人対人のコミュニケーションのあり方が模索され始め、文字ベースのチャットが主流だった2000年代前後からの問題でもあります。性別を偽るネカマなるものが登場したのもこの時期で、多少の偽りを乗り越えてでも誰かと遊ぶことを優先する、未知の出会いの可能性に多少の夢があった時代でした。無線(ハム)を趣味とする人々がインターネットに乗り換えた時に同じような夢を見ていたんじゃないかと思うんです。通信する相手など誰でもよくて、つながることそのものに感動があったというか。なんて大らか。

当時のインターネットは現在の光回線ではなく電話線に毛が生えた程度のもので、常時接続しているとダイヤルQ2並みの料金がかかってしまうので、都度通信を開始/終了する必要があり、FAXみたいな音がしてました。

そんな寛容な時代の残滓を引きずりながら先端技術の通信網を抱え、扱いに不慣れな人が多数いた2000年代の真偽不明情報の代表格がチェーンメールでした。見ず知らずの誰かから突然メールがやって来る事態に慣れない人がたくさんいたんですよ。良かれと思ってその情報をできるだけたくさんの人に共有しようと、何の検証もせず、現在はガラケーと呼ばれる通信端末の、操作性の良くないメール機能を駆使して、もとの送信者を含めて送信先が全員に開示される状態で、あらん限りのお友達に一斉送信。その後やって来るのはエッチサイトか個人情報入力させるサイトへの誘導と、人違いを装う詐欺メールの数々。今の感覚ではなんていい加減な時代なんだと思うでしょう?でもこれが普通の人々の感覚だったんです。あの頃から何も学んでいない人が今でもたくさんいらっしゃいます。通信困難の時代を軽々と乗り越えた現在も相手の姿は明瞭に捉えられず、ただ真偽定かでない情報だけが出回るいびつなインターネットの世界に夢を見過ぎているのでしょうか。

 

3つめ。このブログ記事を玄関に貼りだすなんて、考えただけでも恥ずかしさのあまり死にそうです。害にも毒にもなれない、益になんてなるわけない文章なので別に構わないんですが、ポイントはどうでもいい私の羞恥心ではなく、何らかの情報を発信するときに、世界のあらゆる人がこれを見る可能性があり、発信者が自分だと知られても問題がないか、人に話して聞かせられる内容か、見知らぬ人が家の前を通って読んだとしても差し支えないかどうか、深呼吸して考える習慣をつけることです。自分で書いておきながら良心の呵責を押さえ切れない。

よく知らない他者への誹謗中傷をはじめ、偽情報や誤った情報を発信するのは良くないとさんざん言われておりますが、なぜ良くないのか明確に説明できる人が意外と少ないようです。何を隠そう、私もうまく説明できません。

特定のお店の営業を妨害したり、特定の誰かを殺害するなどの予告でもしない限り、その情報を発信した人物を現行法上処罰するのが難しく、また個人間の通信内容を把握することを禁じた電気通信事業法等を根拠に「通信の秘密」が保障されていることにより、たとえ捜査目的でも発信者を特定することは困難と言われています。なので、法に抵触しない範囲で好き勝手なことを発信すること自体、何が悪いのか?という話になりがちです。

これらに対して性善説的立場から「良くないからやめましょう」という論法は納得感に欠けるというか、やる側の行動変容を促すものではありません。私の推測ですが、常習的に攻撃的な情報発信を行う人は、それが悪いことかどうかなど考えておらず、ただ現状に対して怒りを表明せずにはいられない精神状態に置かれており、それを解消もしくは発散するための代償行為と考えられます。簡単に言うと、世の中で悪いことをした人がいて、自分が他のところから抱えてきたストレスをその人にぶつけているのです。別の言い方をすると、面と向かっては言えないけれど、インターネットはどんな汚い言葉を吐き捨てても問題ない、なぜなら自分が何者か表明する必要がない、吐き出した言葉に責任を負う必要もないたんつぼだからです。

そんな自分のありかた、まっとうな人間としての心の制御を失っている状態を、恥ずかしいと思う文化がないこと。これが、誕生から現在に至るまでインターネットが抱える全ての問題の元凶とすら言えると思います。今は他の誰にも分からなくとも、他者を攻撃する情報を発信した事実は消えるわけではなく、いつかそれがきっかけで自らに災いが降りかかるかもしれないことに考えが至らないのかなと思っていたら、小山田圭吾という最高の教材が現れました。あの事件を人々がどう受け止めたかはともかく、今まさに彼に集中砲火を浴びせている人たちこそ次の小山田圭吾になるのだと気づいていただきたいものです。他人の悪事を盾に自分の不満を汚い言葉で解消しているだけの状態がいかに恥ずべきことか、この心が根付かない限りインターネットの世界に平和が訪れることはないでしょう。

 

少し論点はそれますが、インターネットを正しく扱ううえでとても大切なことをaqoursのみんなが情報発信しているので国民全員が見るべきです。どんなお仕事も精力的にこなす降幡愛さんステキ。私の寿命が尽きるまで応援します。

 

技術の発達とともに、ネットワーク上には色々なアプリケーションが出回り、良くも悪くもあらゆることを可能にしている一方で、置き去りにされてきた人間の倫理観、法に頼らずとも「よくありたい」と願う心、well beingもしくはbeing wellがいまだに議論されないのはちょっとおかしいと思っています。お盆なのになんてまともな記事なんだ。

 

もっとも、私がtとfをやめたのは、人類が滅亡するまでそんな時代は決して訪れないと確信したからなのは黙っておきましょう。