男子は等しく生まれながらにしてスケベなので、長じてからも心の埋火のようにちろちろ燃え続けています。そのスケベ心を理性によってコントロールできる男子は紳士と称され、できない男子は紳士と称されます。要するにどちらもスケベで、強いて違いを挙げるとすればスケベな紳士かどスケベな紳士かぐらいです。同じ紳士なのにコンテキストによって意味が違うのは困ったものです。
このようにスケベとほぼ同義の男子たちは、高校生の頃が一番つらいと思います。うっかりスカートの内側とか見ちゃった日には罪悪感を凌駕する多幸感に包まれ、紳士になれそうなのに紳士になってしまうリスクをはらんだ微妙なお年頃です。その大半が子供から大人へと人生の分岐点を迎え、恋愛にうつつを抜かしていると期待されるパフォーマンスを発揮することが出来ない、そういう時期なのです。なので当時好きだった眼鏡っ娘とは手をつなぐだけで心臓がハイなビートを刻み、巡り巡った血流の行先はこっちこっちのコッチコチにも関わらず、押したり揉んだりこすったりのアクションボタンを押すことへの自制が働いてました。今は知りませんが。
観衆を見ればカボチャ畑と思え、男子を見れば全員送り狼と思え。言いたいことはここまでなのであとは適当に読み飛ばしていただいても大丈夫です。
紳士を魅了する逆三角形の大写しから始まる化物語は2009年7月に放送が始まりました。ハルヒ2期、中でもエンドレスエイトの微妙な自己評価をどう処理したものか首をひねりながら7月に突入し、前評判の高かった本作がどんなお話なのか、アルファベットにすると山本山みたいな西尾維新とは何者なのか、それなりに期待して入った第1話早々ずぶずぶになりましたね。
みんなビジュアルがどうとか色遣いがどうとか漢字がどうとか台詞回しがどうとか言うんですけど、躍動感を意図的に間引いたVOFANさんの淡い原作イラストに細い輪郭線で生命を吹き込んだ渡辺明夫さんの仕事だったり、色の数を極限まで減らしたのだろうシャフトのアイデアだったり、おそらくシリーズディレクター尾石達也さんの趣味的な漢字へのこだわりだったり、西尾維新さんの妙に持って回ったものの言い方を違和感なく再現した声優陣の皆様だったり、評価すべきポイントとして全て的を射たものではあるのですけれども、私の評価は変な性格と変な名前の女子をよくもこれだけ集めたことに尽きます。いわゆる普通の女子、可愛いとか綺麗とかそういう尺度があれば十分頭で理解できる女子の範囲を突き抜けてます。変過ぎて誰一人恋愛対象として好きにならない。
特に、正ヒロインの地位を射止めた戦場ヶ原ひたぎのサディズムと猜疑心と大胆さは人間離れしたものがあり、それでいて阿良々木暦に上手く告白できないメンタリティとの齟齬が大きすぎて、嫌というほどのフィクションを自覚させられるのです。でもお話がああだからそれでよかったんですね。過度な感情移入をあえてさせないように出来ているのでしょう。女子高生がたくさん出てくることを理由に、私の失われたキャッキャウフフな数年間を回復するための物語になることを多少期待していたのに全くそうならなかったことは、いい意味で初めての体験でした。辛うじてそれに近いシーンがあったとすればBL本を水のように掬い上げてぶっかけ合う神原駿河の部屋掃除でしょうか。いや違うな、全然違うな。
それでも作品にのめり込んだのは、コメンタリーとあとがたりで神谷浩史さんが口酸っぱくなるほど繰り返していた「アニメは総合芸術」、この言葉に表される総合点の高さです。パーツごとに見ると気付けなかった、それらが合わさって完成する神がかった調和が生み出す未曽有の映像体験。業界関係者が言いそうなことを並べましたけど、今までに見たことも聞いたこともない新しさを持っていたのは間違いないと思います。
全体の印象をぐっと持ち上げたのは歌でしょうね。supercellの2代目ゲストボーカル・nagiさんが切なく歌い上げる君の知らない物語と、ウエダハジメさんの円空仏みたいなエンディング映像、あれは超カッコよかったし可愛かったし言うことなかったですよ。これをきっかけにやなぎなぎさんのファンになってしまったわけですし。
ラブライブシリーズを見ていてもお分かりの通り、音楽は偉大であり、歌とアニメは切っても切り離せない関係にあるのです。斎藤千和さんはひたぎクラブ後もなぜかテレビで延々と流し続けられるstaple stableについて文句タラタラでしたけれど、私は好きですよ。満を持して登場するほっちゃんこと堀江由衣さんのsugar sweet nightmareと双璧を成すと言っても過言ではないでしょう。
じぇ「恋愛サーキュレーションはどうですか」
師匠「あれは歌じゃないね、ラップだよ」
じぇ「好きかどうか聞いたつもりなんだけど」
師匠「花澤さんに歌わせた奴は変態に違いない」
じぇ「可愛いじゃないですか、私は好きですよ」
師匠「ゼーガペイン通ってきた俺には何も言えない」
化物語、あるいは前回少しだけ触れたけいおん!のBlu-ray売上状況がニュースになるたび、自分の買った作品とチャートが一致する状況に、自分は今確かにアニメトレンドの真っ只中にいる感覚があり、これからも人気作の芽を次々と見つけ出す自信にあふれていました。
じぇ「私が面白いと思ったら世の中も面白いって思うんだよ」
師匠「それは順序が逆なのでは」
自信はあっさりと崩壊します。これに続く映像化プロジェクトに偽物語、傷物語、以降何があったか忘れましたが、先に原作、赤い表紙の講談社BOXは適合するブックカバーがないから大阪から滋賀に向かう通勤電車で表紙晒して読んでたんですけど、あの読みにくさは段組みのせいではなく練り込まれた文体がだんだん受け付けなくなってきたってことなのでしょう。
じぇ「ところで百物語の忍って平野綾ちゃんだったよね」
師匠「それ以上はいけない、きっとよくあることなんだ」
毎回予習した状態で映像と向き合ってきましたが、シリーズを追うに従い「言うほどでもない」感覚が兆しましてね。化物語が新しい映像体験をもって魅了したとするならば、化物語から先のシリーズは押しなべて化物語の真似事を繰り返しており、新鮮さを欠いていると思うようになり、ワクワクしなくなり、物語シリーズのBlu-ray継続購入計画は頓挫しました。なので私は「化物語は化物語で終わった」と言い続けてきたのですが、世間の動向は真逆の反応を示し、むしろ売上は化物語を上回る水準をキープするようになりました。
じぇ「どうしてこうなった」
師匠「だから順序が」
決して、作品やその取り巻きの皆様をを貶めたいわけじゃないんです。ただ、そこまでか?という感覚がいち視聴者としてどうしても拭い切れないというか、いったい何に盛り上がっているのか、どの辺に魅力を感じているのか、化物語のインパクトを知っているだけにだんだんと分からなくなっていったのです。
別会社の同期で自宅に6,000冊を超えるマンガ蔵書がある友人も「読みにくい回りくどい気取ってる鼻につく」と西尾維新さんをケチョンケチョンに酷評しており、また世の中には一定数の西尾維新アンチなるものが存在することも知っているのですが、悪意漲る記事を読んで共感したと思われるのも癪だし、あまり親しく情報交換したい人たちではないなと正直思いました。どの世界でもアンチと名のつく人たちは人品を疑うレベル。
世間が遅れているのか、私が世間に乗り遅れているのか。このズレは物語シリーズ終盤の2013年ごろまで延々と続き、同じ制作会社のシャフトによる2011年の魔法少女まどか☆マギカが評価されるに至っていったん一致を見るのですがその後も世間と私の評価はズレてゆく一方で、最近は売れるアニメを一切敬遠するようになりました。進撃の巨人、天気の子、鬼滅の刃、Fate/zeroと空の境界以外の型月関係、麦わらの一味、最近ではウマ娘とオッドタクシーですか、全無視です。ラブライブは除く。売れるということは、私が見なくていいものだと思ってます。ラブライブは除く。
アニメの選球眼、とでも言うべきものについて考え始めた時期がこの頃でした。サラリーマンとして働きながら、全てのアニメを週末ごとにチェックし続けることへの限界を感じ始めた時期でもあります。次回は……おそらく2011年、私のアニメキャリアを語る上で外すことのできない魔法少女の物語についてお話しします。さっき言ってたような気もするけど。