working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

大学と私(4)

皆様こんにちは。三寒四温と二次三次を行き来するgentlyです。目下の駅メモ!推しはみらいさんです。

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ルコアさん並みの露出度

当初は大胆なポージングで露出過多のヘソ出しお姉さん程度に思ってたんですが、最近リリースされたスクールライフフィルム(彼女たちは人の姿をしていますが電車なので、服ではなくラッピングフィルム扱いです)に換装したところ

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モデルさんみたいね

立てば芍薬スカートがやたら短いのはともかく、構図がとても綺麗で清潔感があります。かつて日本の女学校では既製品としての制服が存在せず、家庭で作るものだったそうです。海軍水兵が着用するセーラー服は構造がわかりやすく、幅広い裁縫技術を習得する上でも有効だったことから、大正期以降日本各地で採用されたという話を日本経済新聞の文化面と明日ちゃんのセーラー服で知りました。もっとも、何をどう言い繕ったところでサラリーマンのおっさんがセーラー服の女の子を可愛いの美しいのと褒めそやすのは犯罪行為に匹敵すると思います。おまわりさん私です。

みらいさんのネーミングの由来はつくばエクスプレス八潮駅みらい平駅だそうです。普段のフォルムが近未来的なのもそういうことなんでしょう。デザイナーの仕事は偉大です。

 

そろそろ過去話の続きを始めます。なんのために書いているのか、書きながら考えます。あとしれっと改題してます。

 

軟式野球サークルをやめたので、当然の帰結として合コンにも行かなくなりました。まだ1年生で主催経験も皆無、誰かのセッッティングに乗っかる日々の中で私は誰ともコネクションを作るに至りませんでした。何人か知り合いがいた跡見グループが、あのサークルで回されている(あ!回すからサークルなのか!なるほどね!なんて不潔な円!)ことに気づいてからはすっかり疎遠になりました。夢のキャンパス・ライフは半年少々で終わり、今更他のサークルに行く気にもなれず、孤独な影を落とす日々になりました。うまくいかないもんですね。すっかり幻滅してました。私何しにここへ来たんだろう。

夏の終わり頃からKO義塾が輩出した純文学の大家、遠藤周作を読み始めました。と言っても図書館に通うとかではなく文庫本です。ついこないだまで女の子のことしか考えてなかったニキビ面の学生が、入学早々挫折して、なんらかの答えを求めてキリスト由来の物語群に頼ったわけです。

 

……遠藤周作だったことには同学以外の理由があります。スクールカーストという概念が存在せずとも、学業成績によらないクラスの序列がなんとなく形成されていた高校時代。その最上位にいた男子がある日突然「沈黙」を読み始めました。雲間から薄陽が差している写真の表紙をこれみよがしに晒して黙読している様子がサマになったからなのか、クラス内の男子が真似し始めましてね。

そのムーブメントに軽薄以外の何も感じなかった私は絶対お前らなんかと歩調合わせんからな!ハァヤダヤダどうせ全部お前らのモテアイテムかファッションレベルなんだろうがよクソがっ!と思ったかどうかはともかく自宅で一人、分厚い「ソフィーの世界」を読んでました。世界がどのようにできているかを知ることと、自らの幸福にどんな関係があるのか、簡単そうで難しい哲学書でした。妹が読みもしないのにどこで買ってきたのかメルヘンな色使いになった2分冊の表紙を本棚ファッション的に飾るに至って自分もまた軽薄だったことに気付かされるというオチまでついてきました。あれはそういう本ではない。そんなわけで意図的に回避してきた遠藤周作を、彼らの目につかないこのタイミングで読んでみようと思ったのです。その最初に選んだのが「沈黙」。

みなさん読んだことありますか。私は1回読んでもういいやと思いました。徳川幕府の黎明期、キリストの教えを広めるためにはるばる西洋からやってきた一人の宣教師が直面した禁教政策の現実を描く中編です。九州で活動していたこの宣教師は、領主の凄惨な拷問によって転び(棄教のこと)を迫られても信念を曲げずに死んでゆく民を見て、神はなぜお救いにならぬのか、自分は彼らを苦しめるために日本に来たのかと悩み始め、自らが拷問にかけられるに至ってついに転んでしまうという、なんの救いもない話です。数年前にマーティン・スコセッシ監督によって映画化され、原作を知っているので観に行く気にもなれませんでしたが、イッセー尾形さんの領主はさぞかしハマり役だったろうと想像します。

 

……信仰も情緒もなかったあんな野郎にこんな話が理解できたとは到底思えず、読後もなぜ「あいつはこれにしたんだろう?」と首を捻って考えていたら、小論文対策がどうのこうのと言ってたのを思い出しました。読書感想文でも書く気だったのかな。アホやんけ。

私はどうだったのかというと、作中の人たちの信じる心はどこから出てくるのか、荒唐無稽な奇跡の話や死んだ人間が復活する話を集めた本の中の神とやらに命をかけて帰依する理由は何なのかがさっぱりわかリませんでした。何のために死ぬのか。何のために生きるのか。そこにぶれない価値があるとすれば、その価値の対象は何なのか。「沈黙」はよくわからない話でしたが、考えるとっかかりを残しました。

 

そこからはひたすら遠藤周作祭りです。書店に出ている限りの文庫本を読み漁りました。法律という本来の学業をほぼ投げ捨てて、池上のワンルームで読み耽りました。そのほとんどがつらい話でした。似たような話もありました。ただそのおかげでようやく自分なりの答えらしきものに到達したのが「侍」でした。西洋との交易によって国を富ませるという御役目のために表向きキリスト教に入信した一人の侍が、長い船旅を経て西洋を見聞し、帰国した日本は禁教政策に転換したのを知っていたにもかかわらず、形だけだったはずの信仰を捨てず、ついに処刑されるまでを描く長編です。モデルは支倉常長と言われています。

これを読み終えた時、創作物で初めてボロボロに泣きました。信仰の価値の源泉は分からないながらも、何かに殉じる覚悟で臨む彼らに心を揺さぶられました。日本では多くの宣教師や信徒が迫害を受け、神の教えが否定されている事実を知ったローマ教皇に謁見を断られ、輿に乗った教皇の前に立った白装束の侍たちの場面、私の頭の中では親書を恭しく差し出す手と、必死に懇願する彼らと、首を横に振る教皇と、G線上のアリアが交差していました。

御役目を果たせなかった彼らの何人かは切腹し、彼らを異国に導いた宣教師は火刑に処され、侍も先に述べた通り国元で処刑されます。やはり救いのない話なのに「沈黙」とは違う何かを掴んだような気がしたのです。つまるところ信仰とは、どのように生きるかによって表現される、その時自分の外側に信じられるものがあるかどうかではなく、心の中で何を大切に思うかであって、キリストはその媒介なのだという考えに辿り着きました。今でも「侍」だけは定期的に読み返しています。素晴らしい小説だと思います。

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以上の理由でうちの書棚には「沈黙」がない

私は聖職者にでもなる気だったのでしょうか。修行のように部屋に籠っているうちに後期試験が終了し(何にもしてなかったのでほぼ寝ずにテキストやら何やら読み耽って受けましたよ?全身にミミズ腫れみたいなかゆみの症状が出た時は死ぬかと思いましたけど)、2年になりました。彼女を作る目的に邁進してギラギラしていた私は死にました。死にましたが、大学と自宅を往復する生活で何を目的とすべきなのか、何が大切なのか、相変わらずよく分からない暮らしを続けていました。学部選択を間違えたんだなということに薄々気付いていましたがそれだけは言ってはいけないと思いましたし、転部するだけの気力も残されてませんでした。今回はこの辺で。

 

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みらいさんの言葉はわかりみが深い