working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

私とはなにかを考え始めたらイルミューイになった話

いよいよgentlyは頭がおかしくなったと思った皆様こんにちは。残念ながら頭がおかしいのは前からです。なぜタイトルのようなことを考えたかというと、私の範囲がよく分からなくなってきたからです。人類補完計画とイルぶるが真っ先に思い出されるのは社会人として当然の常識ですが、どこまでが自分で、どこからが自分ではないのか。簡単なようで意外と難しい話です。

 

私には体がありますので、体の内側と外側をもって明確に区分された状態を保っています。これは物理的な私です。私と誰かが手をつないでも、その誰かが私になったりしません。セックスしてる時に脳内が快楽物質に満たされて「ひとつになろう」とか「体が溶け合うくらいまで」とか本気で言ってる奴はそれこそ頭おかしいだろうと私は思いますけど(よく思い出したら私も言ってた気がしてきましたけど)、それも別々の個体がくんずほぐれつ密着している状態に過ぎないのであって、その相手は私ではありません。

 

私がお散歩中に辻斬りに遭って片腕を切り落とされたとしましょう。私はお金持ちなので、精巧に作られた、見た目も機械機械していない、これまでと寸分変わらない動きを実現するスーパーハイテク義手を装着しました。この義手は私でしょうか。自分の意思で動かせる範囲であれば、自分の体でなくてもそれを私と認識することは別段おかしなことではありませんよね。

では、切り落とされて辻斬りの下手人が持ち去ったか、そこらの野良犬がくわえていったのだろうもともとの腕は、私でしょうか。言われるまでもなくその腕は私の体なので、物理的な私の定義に固執すると、その腕は私ということになります。切り落とされた腕も、義手を装着した体も、どちらも私ということになると、私が2つ存在することになります。さらに言うと、その腕が下手人の趣味でさらにいくつかに切断される事態になったらどうでしょうか。私がどんどん増殖する事態になります。ここに至って、物理的な私をもって私を定義することはできないのではないか?と多くの人が気付きます。

 

次に出てくるのは、哲学者の名言を引くまでもなく私が私として思考している意識こそが私なのだという説です。これは精神的な私です。切り落とされた腕は思考しないから私ではないと言えますね。思考は体を離れて行えるものなのか?思考を司っているのは体の部位なのではないか?具体的には脳なのではないか?つまり、精神的な私を定義するのは脳なのだということになります。

これで議論は決着したように思われますが、脳そのものは体の一部であって、脳を媒介として行われる思考は脳そのものではありませんから(頭と胴体を切り離されたら頭の方が私で、頭のない方は私ではないという奇妙な結論を導く物理的な私の問題にUターンしてしまいます)、次の問題として思考する私=精神的な私はどこにいるのか、その範囲は思考が広がる限り私なのか?地球全体に思いを致すときの私は地球そのものになりうるのか?という沼にハマりました。

 

精神的な私が私であることはまぁいいんです。私もそこは納得してます。ところがこの精神という、実態を持たないものを扱うのが難しいのです。一歩間違えたらスピです。なので慎重に書いていきます。うまく行ったら教祖になります。

 

最近、うちにお客さんを呼んでアニメを見る機会が増えましてね。私の家でやることなので、当然私がお勧めするアニメを見ることになるんですけど、その時のお客さんの反応がいい時と悪い時が当然あって、いい時は同じように楽しみ、悪い時は私も楽しくならないのです。

よくよく考えたらこれはおかしなことで、お勧めするアニメを見ている以上、前段階の動作として私が物理的に一人で見ている時はそのアニメをしっかり楽しんでいて、その結果があるから観賞用にBlu-rayを買っているわけです。つまり、一緒に見ている人の気分や空気によって感じ方が変わっている、言い換えると、精神的な私が拡張していることになるんじゃないか?ということです。

 

……この考え方にはいくつか問題点があって、初めて見たときの楽しみや感動が時間の経過とともに薄れたこともあるでしょうし、それこそ一緒に見ている人が私ではないからこそ感じ方が違うのであって、その場の空気に私が反応しているだけで、私が拡張していることにはならないんじゃないか?という反論に対して有効な答えが出せません。ただ、私が言おうとしている精神的な私というのは、すでに確立した別の自我(=お客さん)を取り込んで私になるという人類補完計画的な自我の境界線をあいまいにする意味ではなく、何をもって満足するか?的な部分が一人の時より大きくなっているということです。確立した複数の自我を許容しながら、明確に区分されない精神的な私と、お客さんが持っている「精神的な私」とレイヤーのような状態になって、目に見えない形でふわふわ浮いてその場を支配しているとでも言いましょうか。イルぶる的ですね。

 

酒を飲んでいるときも同じで、一人で飲んでいるほうがおいしい場合もあれば、複数のお客さんと酒を分け合うからこそおいしい場合もあります。それは金銭的な損得では測れない楽しみであり、つまり勘定より感情に価値を置いている行動なのでしょう。居酒屋でおごりたがる人と本質的に同じことをしていることになりますが、そう考えると何か違う気もするなぁ。ただ懐が緩いだけじゃないか。そういう人は酔いが醒めてだいたい後悔してるもんですけどね。それは元から私が拡大していたんではなく、小さい私が気だけ大きくなったってことです。気が大きくなると人は金を湯水のように使います。

 

メチャクチャでしたけど好きでしたよこれ

現状の結論は、「私は伸縮する」。私のコントロールによって都合よく伸縮するものではないのが厄介ですが。