working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

けさのタク通

皆様こんにちは。gentlyは自宅と職場が近いので、駅に向かわず広い道に出てタクシー通勤することがあります。同じ時間、同じ車両に乗り合わせるおっさんが頑としてドアの前を譲らなかったりするのが我慢ならなかったり、二日酔いがきつくて歩くのが嫌だったり、遅刻しそうだったり今日は電車に乗りたい気分じゃなかったり、理由は色々です。

これがやってみると想像以上に快適で、片道千円でこんなに楽なら毎朝これでもいいかと思うほどですが、電車賃の5倍はお財布にやさしくないので月1回あるかどうかくらいです。今朝がその日でした。おはようございます。どちらまで。ほにゃほにゃビルまで。あ~お客さん乗せるのもう3回目ですわ、場所間違えへんように復唱したの思い出しましたわ、ポリボックスの川沿いね、うんうん間違いおまへんわ。そんなに頻繁に乗ってる自覚なかったんですけど、乗る場所と時間帯が同じだと車もだいたい同じなのでしょうか。狭いな大阪。

 

「あれでっか、寝不足でっか」
「そないな時間に見てないですよ」
「アルゼンチンはめちゃくちゃでんな」
「次の試合もあんなんですわ」
「モロッコはもうあれやね、人間のばねがちゃう」
「つぎ宗主国と当たるんで、どないなってもパリ暴動ですわ」
「仲良う騒いどったのに今度は殺し合いでんなぁはっはっは」
クロアチアは点やらんかったら分かりませんで」
「日本はPK下手過ぎですわ、完全に読まれてますわ」
「3本止められたらどないしようもないで」

 

3回乗せただけの客相手によくしゃべる運ちゃん(この表現は差別的に捉えられる恐れがあるそうですが、お分かりのとおりそのような意図は一切ございません。ポリコレこわい)です。今日は新聞が休みだったのでぼんやりできると思ったのに。こうなると止まりません。

 

「それにしてもな、タトゥーはあかん」

 

運ちゃんいわく、日本の刺青と同じっちゅうやつおるけど全然ちゃうわ。刺青は色彩あって美しいし手が込んどる。あいつらやっとるのはおもちゃみたいなもんや。あんなん見せびらかしてカッコええ思てるとしたら相当イタい奴らやで。腕も脚もびっしり入れよってほんま見苦しいわ。子供もようけ見とるのにわけのわからん腕章つけたり、ケッタイなスミ見せびらかしたり、ちょーっとカネ持ったらあない勝手なことしだすの品がない思いまっさ。スポーツの世界にあんなんいりまへんねん。見たいもんと見せたいもんがズレとるのは不幸なことでっせ。

 

……タトゥーの歴史的、文化的意義について調べたこともなければ調べようとも思わないですけど、もともと呪術的、祝祭的な意味合いで体に墨を入れる風習があって、それがいつの間にかファッションやら願掛けやらのごく個人的な事情に変遷していったんじゃね?程度の事しか知りません。風呂屋さん(銭湯とその他温浴施設で他の客に肌見えるところ全般)が現在に至るまで墨持ちの客をお断りしてるのはその威圧感、恐怖感によるもので、せっかくリラックスしに来てるのに墨持ちが来たら、のんびりなんてしてられんのです。だから日本の文化風習的に、どんだけ美しい観音様が背中におわしましても墨はタブーなのです。

つまり、タトゥーを見せびらかすように入れてる人たちというのは職業的威圧(行間読んでね)が必要な人たちなわけで、体ぶつけてボール奪ってなんぼの彼らが殊更自分の強さや怖さを打ち出そうとすることには一定の合理性があると私は考えます。その点は刺青も同じです。しつこいようだけど行間読んでね。

ただ、そのこととタトゥーを美しい、カッコいいと思うかどうかは全く別の話です。私は運ちゃんの意見に賛同します。タトゥーはちっともカッコいいと思わないし、刺青は腕のいい彫師かどうかすぐ分かるし、実際美しい。でもやっぱりちょっと怖い。だいたい本物を見る機会はフーゾクなんですけど今その話はややこしくなるからいいや。あの子たちも何を思って登り鯉やら菖蒲やら薔薇やら朝顔やら入れるのか怖くて聞けなかったけど、十中十は付き合ってた男の筋なんだろうな。いざ自分が同じ立場になったら断れないかもしれない。あんなん傷物にされたも同然やんけ。というか出るもんも出んかったわ。

 

最近は異文化理解の話とまぜこぜにして「多様性」が一つのトレンドのようになってますけど、この風潮はおかしいというか、それは逆に理解が進んでないのに理解したようなツラしてるだけのウソつきが増えるだけなんじゃないかと思ってます。

「ONE LOVE」腕章が問題になったLGBTQにしたって、中東諸国がどんな歴史的背景を背負っているか私だって詳しくは知りませんけど、男性は女性を、女性は男性を好きになるのが圧倒的メジャーなわけじゃないですか。それなのに、性自認と恋愛の自由が大手を振って世界が注目するピッチで主張を始めることの一方向性が、すでに多様性を歪めてるんじゃないか、開催国の異文化に対して理解がないんじゃないかと。

前身のブログで、理解と許容は違う旨のことを書きました。理解は文字通り「わかる」ことで、許容は「見て見ぬ振りをする」ことです。LGBTQなんて、本当は許容止まりなのに理解ヅラしてる奴が多すぎますよ。それは迫害や対立が顕在化するよりも、性的マイノリティが生きづらい社会を創出します。だって、みんな理解してるようでしてないんだもの。「LGBTQはそう思う方々だけでやってください、迫害も批判もしません、そういうのがバリバリ表に出てくる世界はちょっとしんどいです」が本音だろうに、みんないい顔しすぎなんだよな。

 

運ちゃんのように、理解し難いものに対してはっきりと「わかりません」と言えることの健全さは大事なことです。異文化理解は容易いことではありません。相手に気を使ってわかったふりをすることはとても危険です。その前に正直であることの方がはるかに美徳です。私の返事はこうでした。

 

「なにごとも
 あんまり気にせん
 ことですわ」

 

あー、そういう人もいるよね、でいいんですよ。それ以上のこと知らなくたって困ることはありません。小さな差異を問題にするより、同じ人間やなー程度の認識でいることが本当の多文化共生なんじゃないかなとね、二日酔いの頭で考えた次第です。4回目当たったら何の話されるんやろ。