working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

経済格差と知的格差

皆様こんにちは。良質なアウトプットには、良質なインプットが不可欠です。文章が書けること、上達すること、その先の多くの人に読まれること、最終的にいわゆる「Buzzる」に至るステップアップ。私には全く縁も興味もないものですが、これらは技術の領域に属することです。

インプットは技術ではなく、ブロガーの日々の営みに属することです。人はインプット=学び、それは学究分野に限らずアニメだったり音楽だったりマンガだったりそれ以外だったりを通じて知識や体験が手に入るだけでなく、その蓄積に裏打ちされた人間性が形成されます。いわゆる教養です。

ただ、ある時期からインプットが実用的な知識の獲得に偏重し、豊かな教養が形成されなくなっているように感じています。それは私のフィーリングにとどまらずアカデミズムや政治においても同様で、人文系の学問よりも世の中に役立つとされる理系人材の育成に力を入れようとする国の姿勢にも見て取れます。

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5年前の寄稿が現在まで強烈な説得力を持ち続けることへの批判は控えるとして、佐和先生ほど志の高い話をしたいわけではありません。私はハンナ・アレントの政治理論と森村誠一の小説のタイトルを混同する程度の半端者ですが、「日本と違って米国の政治家、とりわけ上院議員は応分のインテリジェンスがなければ務まらない。」のくだりは腹抱えて笑いました。

この論評が公表された3年後、2020年の日本学術会議に対する菅内閣の任命権の問題、政府の方針に対して異を唱える学者を任命しない、ということがありましたが、当初の私は「変な学者なんだろうから任命しなくていんじゃね?」程度に思っていました。しかし、民主主義は権力の一方的な行使を妨げるストッパーがあってこそ初めて成立する当たり前のことを忘れかけてました。人文学を修めた者は政府にとって目の上のたんこぶ程度でしかないとの認識がいかに危ないか、それは全体主義の第一歩であることがよく分かるというものです。

こうした風潮、理系、技術系の学識偏重が私どものような下々の民に降りてくると何が起きるか。技術的、すなわち分かりやすく社会に貢献する知識、あるいは手っ取り早くお金を稼ぐ知識を身につけた者こそが正義とする考え方の横行です。

 

この考え方は従来の保守層と呼ばれる人に多く見られましたが、現在は保守的な言論のように見えてその実、思想信条において核となるものがない、いわゆる「ネトウヨ」たちによって、インターネットを中心に主張が展開されています。

知識の披瀝以外に技巧的かつ露悪的な言いくるめ(いわゆる論破)、それらと複雑に絡まり合った自己承認欲求、その文面で取り扱った人物や事物に対する一般的にあるべき敬意の欠如などが見受けられ、それを書いた人の人間性がほとんど感じられません。

理由は述べてきた通り、この手の人たちには知識の蓄積に伴うはずの教養が欠如しているからです。知的な言論空間であるべき振る舞いを、教わったり考えたりする機会を与えられなかった不幸、あるいは知識の習得過程において教養を認識することなく通過してしまった不注意とも言えます。

これが匿名性をまとい、さらに他者との交流が活発な空間で展開されると目も当てられないことになります。ヤフコメのことなんですけどね。最近電話番号登録を義務化したことで過激な書き込みは減少したそうですが、知識を鼻にかけて人を見下す態度を取りがちな彼らは相変わらず良質なインプットに恵まれないようです。一面的な情報手段、特定のニュースアプリの記事を読んで即席的な理解、実用的というより刹那的な知識の物量をもって教養と勘違いしています。インターネットの毒です。

 

知識は少なからず自分の行動に変容をもたらすものです。極端なたとえですが、殺人を禁止する法律があることを知っていれば、うっかりでも人を殺さないように振舞うはずですし(日本の刑法は殺人を犯した者への刑罰を定めているに過ぎないので禁止していることにはならないとかの屁理屈系はどっか行ってください)、日常的に人と接する機会があれば、その輪の中で自分がどのように振舞うべきかも身につくはずです。インターネットにはこれがないんですね。だから意見の食い違う見ず知らずの他人に対して過剰に攻撃的にもなるし、自分の意見に過剰に固執するのです。

教養とは、相手を人として尊重する行動につながる謙虚さ、素直さ、思いやりといったところに落ち着くのだろうと思います。ただ知識の多寡をもって相手を言い負かしたり、攻撃的な言論をもって相手を黙らせたり、あるいは相手の言論の隙や短所をあげつらって揶揄したり、そのような振る舞いの対極にあるものです。

 

ただねぇ……人類80億人、日本人に限っても1億人以上いて、それぞれの出自、家庭環境、金銭的事情の違いによってどんな教育を受けてきたかとか、どんな人と接してきたかとか、そもそも知識を得る過程で読んできた本とか(読まない人もいるでしょうし)、情報メディアとどんな付き合い方をしてきたかとか、千差万別ですわ。

佐和先生の論評にもある通り、日本は「民主主義を建前とする」わかりにくい階級社会です。それは貧富の差から生じる教育格差によってもたらされ、階級の下方向への流動化は著しいのに、上方向への流動性は全くと言っていいほどありません。上昇しづらい以上に転落しやすい点で身分が固定化した江戸時代よりもたちが悪い。それが最終的に生み出すのは知的格差です。

頭の中にしかないために見えにくい知的格差は、なんとなく誰もが想像している以上に深刻になっていると思います。いくら人を見下すなといっても、なんかアホなこと書いてる人がいたら馬鹿にしたくなっちゃうことはありませんか。たまたま居酒屋で出会った人と話していて「こいつとは話が合わない」と思うこともありますよね。それが知的格差というもの、その人、次の世代、その次の世代と時間をかけて知識階級社会を登ってこない限り埋まりません。

 

日本は憲法などで表面上の平等な社会を謳いながら、その実は知識階級による強力な差別、往々にして経済格差に起因する差別とごちゃ混ぜになりながら横行する社会であり、その構造は「上」から見る時はおもに知的格差の相として、「下」から見る時はおもに経済格差の相として現れてくるのです。

現在の日本はかつてのような貧乏から這い上がるといったサクセスストーリーがもはや成立しないんじゃないかと思うくらい格差の開きは大きくなっているいっぽうで、突発的に経済的な豊かさを手に入れる人もわずかながらいます。

ウーバーイーツの配達員はいつまでたっても配達以外のスキルが身につかず、待遇的に上位の職種に進むことが困難です。努力と一口に言っても、その仕事で努力すればどうにかなるものではなく、仕事以外の場面でスキルを磨く必要があります。

他方、YouTuberやらデイトレやらその他事業やらで稼ぐ方法を見出し、経済格差を急激に埋めるスキルを持つ人々もいるのですが、突然経済的に豊かになると、もともとの富裕かつ知的な階級と伍してゆく、自分の階級の固定化を図るために知的格差を埋めることもまた困難です。

逆の言い方をすると、知識階級が高めでも必ずしも経済的余裕が伴わない場合があったり(いっぱいおる)、経済的余裕があっても知識階級が伴わない場合(これもいっぱいおる)もあります。この両輪が揃うことはきわめてまれで、また両輪が揃わないと階級を維持することが困難です。そして、知識階級を上げるには一定の経済的余裕のあることが望ましく、これを欠いたまま知識階級を上げるのは大変難しいとされています。

 

もう少し分かりやすい例として、具体名は伏せますが、お笑いタレント兼実業家?がインターネット上でサロンを開設して集金するパターンがあります(伏せた意味がない)。あの「事業活動」に対しては、ながーいこと、いい評判を聞きませんよね。彼らは実践的な知識によって得たのだろう経済的余裕に見合う知的な振る舞いを試みて、「稼ぎ方のノウハウ」等と称してセミナーを開いたり、本人が書いたと言われている脚本を元に映画を作ったりして、かしこく見せようとするのですが、そのやり方、特にお金の循環をめぐる手法にいやらしさを感じてしまうのはひとえに教養が欠如しているからです。稼ぐ方法を知っていても、言論空間のあるべき振る舞いを心得ていないのです。ヘンダーソン先生の言葉を借りるなら「ノットエレガント」。それでも彼らに金を払う人が現れるのは、実践的な知識そのものを教養と混同する程度の階級落差を利用されているからなんでしょうけど。

反面、大半の批判的な意見はその集金力に対する嫉妬からスタートしていることは黙っておきましょう。舌鋒鋭くそのいやらしさをあげつらい、しかも匿名で批判する人々もまた、その言葉の汚さから経済格差などによってもともと知的階級が低いところにいるだろうことが容易に想像できるので、あるべき振る舞いを心得ていない点では同じです。私も西●大嫌いなんですけどなんであいつあんなに稼げるんか訳わからん。日本はそんなにアホ増えたんか。

勘違いしてほしくないのは、知識を売ることが品のないこと、お行儀の悪い商売だと言っているのではありません。本当にその知識は稼ぐ技術として役立つのかどうか、つまりノウハウと称しながら、ノウハウを実践した結果上手くお金を稼げない人に対して「本人の資質と努力不足」に原因を帰着させるようなやり方がおかしいのではないか、教養に悖るのではないかと言っているのです。集金される段階で会員になろうとする方々は気づくべきなんですよね。自分は将来稼ぐ側になれるという金看板に踊らされて、今まさに搾取される側に回っていることに。豊田商事以来、違法性の有無、やり方は違えども、カネをめぐる人の思惑は昔から変わりません。

 

いろいろな知識階級の人が集うインターネットに平和かつ対等な言論空間など永久に現れない、というのが私の結論ですが、話をブログに戻して、Buzzろう、場合によっては稼ごうと思ったらそんなこと言ってられないんですよね。広く、浅くでいいので、出来るだけ多くの人に読まれ、理解される内容にしないといけない。私にはそれがめんどくさいのと、そういう技術が到底身につきそうにないので、ごく少数の刺さる人に刺さるものにしていくつもりです。これがカネになるんだ……!!と気づいたら、私も同じこと始めるでしょうけどね。