working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

敬意の危うさと脆さ

皆様こんにちは。WBCは当初ほとんど興味なかったのに、気がついたら1次予選の全試合、全イニングを見てしまいました。昨年の日本シリーズ以降野球に飢えていたのは確かですが、まさかここまで日本代表が強いとは思いませんでした。

会社の経理時代に上司が「野球は投手が7割」と言ってたとおり、大谷、ダルビッシュ、佐々木、山本各選手の先発は球数制限のある中で「試合を作る」どころか「ねじ伏せる」という表現をアナウンサーが多用したがる理由がよく分かりました。第2先発を任された戸郷、今永、高橋奎二、宮城各選手の好投もお見事でした。セットアッパーの湯浅選手、クローザーの大勢選手が出てくるころにはほぼ試合が決してました。

また、代表選出直後から「誰?」と言われ続け、試合直前まで日本国内では無名に等しかったラーズ・ヌートバー選手のリードオフマン、ムードメーカーとしてのパフォーマンスも素晴らしいです。最初はタテに雑巾絞りをしてるんかなと思ってたあの動きはペッパーミルでコショウを振るしぐさなのだそうで、つい先日まで調理器具に過ぎなかったデカいチェスの駒みたいなのがバカ売れしているとの報道もありました。球場へのカン・ビン持ち込みはNGなのに、あんな殺傷能力高そうなのOKにするのはどうなんだろうかと思わなくもないです。

 

春は野球に支配される季節の始まりです。アニメ・ゲーム趣味を持つ者には鬼門と言っていいかもしれません。NPBもオープン戦がほぼ終わり、気がついたらセンバツが始まり、そして昨日早々母校が敗退しました。くやしいです!

元クラスメイトの監督は現代球児への接し方をいろいろ模索してるようで大変です。手作りチャーハンごちそうするとか、まぁ、「鬼」と呼ばれた先代監督の時代には考えられなかったことです。時代は移ろいゆくものですね。

 

そんなセンバツの初日、宮城県東北高校の選手が出塁した際、ヌートバー選手のペッパーミルパフォーマンスをまねて行ったことについて一塁塁審から注意を受けたことが話題になっています。

news.yahoo.co.jp

SNSとヤフコメという名のたんつぼの論調を見る限り、エラー由来の出塁によってパフォーマンスを行うのは対戦相手への敬意を欠く行為であり、高野連の判断は正しいとする意見と、なぁにお堅いこと言ってんだ、世界大会が盛り上がってる最中にパフォーマンス禁止とかいつまで昭和やってんだよという意見の二項対立が生じているようです。

私はどちらの意見にも違う違う、そうじゃないと言いたくてムズムズしてましてね。高野連がパフォーマンスを禁止しているのはあくまで高校野球が「教育の一環」で行われる試合だからであって、ヒットだろうとエラーだろうと出塁時のパフォーマンスなんて言語道断なんですよ。教育とは礼節のことです。

秘すれば花の慎ましさをもって貴いとする高野連のお歴々は現状黙認のガッツポーズや優勝時のマウンド人差し指に対してすらいい顔してないでしょうね。パフォーマンス禁止の判断が示された当日、どのような意図で禁止したのか声明を出すのは相当判断が早かったと私は評価してます。書いてあるじゃないですか、プレーで楽しんでほしいって。高野連はどんな場面、状況だろうと派手なパフォーマンス全般に対してネガティブなのです。

そもそも、パフォーマンスは少なからず自軍を鼓舞すると同時に、相手への挑発をいささかも含んでいないとはいえないことへの自覚はあるべきです。母校が優勝したときのチームメンバーも、安打が出れば塁上で舌を出すパフォーマンスをやってましたがお咎めなしでした。高野連の判断はそういう意味で線引きが不明瞭な部分はありますが、間違ってはいないと思います。

そういった教育偏重の考え方を「古い」とする意見には一部賛同します。勝負事である以上、パフォーマンスの挑発的な印象に捉われず、教育の目的とのバランスを取ることは、組織としてもう少し重く受け止めてほしい部分もあります。

 

ただ、この判断基準に「相手への敬意」を持ち出してくる人たちは、勝負事と正面から向き合った経験がないんじゃないか?という疑問がわいてくるのです。私もスポーツの経験なんてほとんどありませんけど、母校の野球部と3年間近しい距離にいて(もう四半世紀以上も前ですが)、彼らの考え方に触れた経験から一つ言えるのは、敬意に先んじるのは戦意、つまり勝利への執念です。

現監督と私は同じ教室で2年間担任だった先生からこんな話を聞きましてね。

 

勝負事は「勝てば官軍」である。野球部は負けたら次がない。負けたら誰にも相手にされない。敗軍は賊軍である。いくらテレビや新聞が美化したところで負けた事実は覆らない。世間は表向き賛同するが、同時に世間はすぐ忘れる。勝たなければ存在しないのと同じ扱いになる。相手に何も言わせないほどの力で勝ち抜くのだ。絶対に負けるな。人生の3年間で死ぬほど努力する時期があったっていいじゃないか。この3年間で成果が出せなければ自分たちには進路がない。その気迫と覚悟をもって日々を過ごしてほしい。

 

受験と、野球。目的が異なる両者をひとつの教室で束ねる役割の先生が、普段あんなに穏やかだった先生が、これでもかと語気を強めて語った話として死ぬまで覚えていることでしょう。分野は違えど、両者とも全力で闘志を燃やす戦いには違いないわけで、その場の敬意の有無なんてほとんど意識する余裕もないのが現実です。

我々はそんな先生を副担任ともども3年目に辞職させてしまったわけですけれども。いま、監督はあの時の先生の話を思い出してるかな。先生に言われるまでもなく、肌身で経験して十分知ってると思うけど。

working-report2.hatenablog.com

 

スポーツマンシップは心の余裕から生じるものであって、勝敗より優先するものでも、並立するものでもなく、後からついてくるもの。少なくとも私はそう思ってます。WBCを通じて国際交流がなされるのはとてもいいことですし、チェコ共和国の代表選手との交流がクローズアップされることも大変喜ばしいのですが、その前面、とくに両者の闘志が激突している試合中に「スポーツマンシップ」という言葉が来る時の日本人の思考機序の合間に、無意識ゆえの危うさを孕んだ「上から目線」を感じるのです。

もしもチェコと日本の野球の実力差が反対だったとき、果たして応援する日本人はスポーツマンシップを、相手への敬意を、心の余裕を失わずにいられるのでしょうか。あるいは、もしも死球を受けたのがエスカラ選手ではなく大谷選手だったら、同じことを言ったでしょうか。

サッカーワールドカップの決勝トーナメントでクロアチアに敗れた時の敬意はどうだったでしょうか。ゴミ拾いやロッカールームなど、直接勝敗に関係ない美徳が注目されたものの(本当に海外から注目されたのかどうかもよく分かりませんでしたが)、勝敗に関する部分で日本人の敬意はフィーチャリングされたでしょうか。延長戦でも決着がつかず、PKで勝敗が決した瞬間ほとんどの人が落胆したのは記憶に新しいところですが、その直後に敵将への賛辞やクロアチアの選手たちへの敬意を表明していたでしょうか。プレーしていた当事者はともかく、応援していたほとんどの人が記憶にないのではないでしょうか。負けるというのはそういうことなのです。

そしてもう一つ、韓国に対しても同じことが言えるでしょうか。そこに敬意を持ち出せないなら、では日本人の言う「敬意」とはバーターでないと成立しない程度のものなのでしょうか。相手がどうあれ、本来の敬意とはそういうものではないはずです。

日本優位という限定されたシチュエーションにおいて発揮されがちな清々しさや美しさを尊いとする人たちと、必死にやっている当事者の大変さに半ば目を瞑りながら、甲子園で汗を流して懸命に戦う高校球児を賛美する8号門クラブとの間に、スポーツはこうあってほしい、あるいは高校野球はこうあってほしいとの理想を押しつける意味で、何の差異があるのか?とすら思ってしまいます。勝敗を措いてスポーツマンシップに傾倒するのは実力差によって心に余裕がある時と、自分自身が勝負の当事者ではない時だけです。

 

WBC日本代表には更なる勝利と栄光を、母校には夏に向けてのチーム強化を祈念しつつ、野球の季節を迎え入れることにします。勝たないと、先がないんですから。