working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

不死の懲罰性について

皆様こんにちは。前回に引き続きスピくさい題名をつけました。人払いのためにわざとやってます。最近読者数が増えすぎたきらいがあるので追い払いたい。スケベな話とか恥ずかしい話とか書かれへんやんけ。

コロナ感染症が5類に格下げされてしばらく経ちました。土日の昼間はどこに行っても人だらけです。近所のお気に入りのラーメン店にも容赦なく人が並んでました。コロナ以前の暮らしが戻ってきたのを実感します。待つのクソ面倒ですけど。

 

色々な方のブログを見ていると、コロナ禍でお願いベースの行動規制を強いられた3年余りの重みは人によって全然違うことが分かります。41から44になろうとするおっさんの3年なんて大したことありませんけど、10代の、人間の基礎を形作る最もアグレッシブかつ濃密であるべき時間に手足を縛られた若い子たちの無念を晴らせないのは、なんら決定権のないおっさんの私ですら責任の一端を感じます。

彼らよりも年長者の都合で物事が決められてるんですよね。ワクチンは高齢者優先で、接種したらしたでアホみたいな高熱出るし、連日マスク生活を強いられて、メシ食ってる最中はしゃべるなとか、人と接触するなとか、リモートで授業受けろとか、感染リスクが最も低い彼らの声なんて、政治的決定権を持つ人間たちは誰も聞かなかったんですから。未来のない人間が、未来のある人間のファンダメンタルを食いつぶしたと言っても過言ではないかもしれません。

 

とくにマスクが不足していたコロナ禍序盤、仕事がないのをいいことに早朝からドラッグストアに並んで買い占めた連中、市場の混乱に乗じて高値転売していた連中、さらには欠品を理由に店員さんを怒鳴り散らして意地汚い生き恥を晒した連中には、どんな罰を与えても足りるものではありません。私は寛大なので、「率先して死ね」なんてひどいことは申しません。むしろそんなに死にたくないなら、死ねなくしてやりたい。

 

師匠「人に与えられる一番重い罰は不老不死だよな」
じぇ「火の鳥にそういうテーマの話があったんよ」

 

小5くらいから中高時代にかけて、単行本も雑誌も買う習慣のなかった私が繰り返し読んでいたのはブッダ火の鳥でした。言わずと知れた漫画界の巨匠・手塚治虫による大著を、親父がどこから見つけてきたのか特装版の上製本を買ってきてくれたのです。

きっかけは歯医者さんでした。ブラック・ジャックブッダ上製本全巻を待合に置いてあるんです。これを読んでると待ち時間が全然気にならなくて、治療が終わってからも延々読んでました。積極的におねだりした覚えはないのですが(なんせファミコンおねだりしたら半殺しにされる家でしたから)、親父の中で文化的に許容できる範囲の事物に関してのみ、財布の紐が緩むのです。

テスト勉強の合間、受験勉強の合間、範囲学習が終わるまで部屋から出ない程度には集中力が持続した私を異世界へ導いたのは仏教の開祖と架空の鳥の物語でした。読み始めたら勉強なんてどうでもよくなりましたね、はぁ。100回ではきかないくらい通読しましたが、飽きることがなかったです。

親父は酒乱と暴力さえなければ本当にいい親父だったと思います。

 

火の鳥はどのエピソードも記憶に残る名作ぞろいです。火の鳥とは不死鳥のことです。青銅聖闘士のイッキのあれです、フェニックス。そして火の鳥の生き血を口にすると永遠の命が得られるのだそうです。これはどのエピソードでも基本的な設定として描かれています。人間は仙薬のように火の鳥を崇め、その血を求めて相争います。

これ実家にあるの

未来編は一人の男が人類滅亡後も生き残り、足掻き続け、ついには海に有機物を投入し、生命の誕生から人類の復活を夢見てひたすら待つという、壮大過ぎる時間軸の中で展開します。全編を通じて珍しい、火の鳥の血を飲んだ主人公の物語です。

いずれの時代においても、権力者が、あるいは大富豪が喉から手が出るほどに追い求めた永遠の命、それを手に入れた男を待っていたのは壮絶な孤独です。ある哲学者が「死に至る病」と表現した孤独に散々打ちひしがれているのに死ねない。つまり不死であることによって死の恐怖から免れても、不死と伴走する孤独こそが実は最大の恐怖なのです。

 

……あまり話し過ぎるとネタバレが過ぎるのでほどほどにしますが、未来編は手塚先生の先見性が恐ろしいほど発揮されています。予言書といっていいレベル。この未来に着実に近づいている恐怖感すら感じさせる重みがあります。

火の鳥のテーマは「永遠の生」と「死」には差なんてないですよ?てことだと思ってます。未来編はその色合いが特に強い。肉体が滅してなお生きている状態を、肉体を持つ有限の生命体視点では生きているとは言わないでしょう。異次元、高次元の存在、つまり神のようなものです。有限の生命体である私達は神がいてもいなくても日々の暮らしは変わりません。終わりがあるからこそ生には意味があり、価値がある。だから毎日をちゃんと生きようとする。

不死のダウングレードである長寿にもだいたい同じことが言えます。自分より後に生まれた者が自分を残して次々と死んでゆくことほど辛いものはありません。イヌやネコを飼ったことがある人にはこの感覚がよく分かるでしょう。長く生きたとて、その有り余る生を共に享受してくれる誰かがいない生は、罰なのです。

 

師匠「さすが手塚、俺の考えを半世紀も前に表現するとは」
じぇ「後追いでもその境地にたどり着くのは偉いんじゃね」

 

では偉そうに書いてる私は限りある生を意味のあるものに出来ているのか?と考え始めると徒に生を縮める結果になるので深く考えないようにしています。