working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

大河ドラマがしんどい理由

皆様こんにちは。どうする家康をぶつくさ文句言いながら見てます。安っぽいCGや演出の下手くそ加減に対する不満はそのままですが、最近は人物の描写、演技のうまさがちらほら目に入るようになってきました。

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阿部寛武田信玄はめちゃくちゃいいですね。駿府陥落の直前、三方ヶ原が始まる前で軍勢を鼓舞するシーンは恐ろしくサマになってます。部下を惹きつけるリーダー然とした姿とはこういうもんかと思いましたわ。本人と影武者の2役演じた仲代達矢は影武者パートがほとんどだったし、中井貴一はカッコよかったけどいまいち迫力を欠いたというか、若すぎた。あとは市川亀治郎……うん、亀治郎のことは当分そっとしておこう。

 

ここ数年の大河ドラマには、私が見てきたそれらと根本的な雰囲気の違いを感じます。総じて軽い。たぶん日本全国の古参の大河ファンも同じようなことを思っているでしょう。その軽さは言葉づかいだったり役者が醸し出す雰囲気だったり、先述したハメコミ感ありありのCGだったり、泣きにも笑いにも振れ幅の少ない拙い演出だったり、大河ってこうじゃなかったよね?みたいに、視聴者の長い経験から外れることによって生まれる違和感です。

そんな違和感の原因を史実との整合性に求める人たちがいます。この考えはとても危うい。なんでって、大河ドラマが史実通りだったことなんてかつて一度もないからです。大河=史実みたいな、信仰めいた「大河崇拝」がどこから生まれてくるのかといえば、ひとえに過去の大河が見事に「それっぽく」、つまり歴史上の出来事としていかにも納得できる作りをしていたからです。

現在確認されている歴史を紐解いて、物語に仕立てる、それを絵や動きとして見せる人の力量で出来が変わり、より史実らしく、あるいは創作くさくなったりするのです。これはどちらが優れているかという話ではなく、好みの問題です。

もっと極端な話をすれば、歴史とは信頼性が高い当時の記録を比較検証しながらつなぎ合わせて、研究者が「こうです」と言っている通説のことであって、本当は何があったのか=史実は神のみぞ知る世界である、ということです。

歴史と史実を混同している人が案外多いのには驚かされます。歴史とは後世の人が推定した通説の連続であり、史実とは確定不変の事実のことです。したがって、歴史は新しい記録が発見されれば常に変動します。

 

かつての重厚な大河も、最近のライトな大河も、いつの時代も大河はファンタジー絵空事です。みんな大好き独眼竜政宗だって、最終回は幼年・青年・老年の3人の政宗が光の中に溶け込んで終わったでしょう?たまに歴史上存在しない人物だって挟んでくるでしょう?信長 KING OF ZIPANGUの加納随天とか。

私はこの信長が大好きでしてね。桶狭間のエキストラ何人使ってんねんってくらい迫力ある合戦シーンで今川義元の輿が包囲されるのは鳥肌ものでしたし、二谷英明が演じた平手正秀が不憫すぎてゲームでとことん重用しました。宇津井健林隆三芦田伸介、思い返せば昭和の名優ぞろいだったなぁ。郷ひろみマイケル富岡はイロモノ枠かと思いきや、とてもちゃんとしてました。高橋英樹以来、荒々しさと雄々しさのイメージが定着していた信長像を破壊し、現在に伝わる人物画に近い、線の細い信長を再構築した緒形直人はすごいと思います。

 

話を戻して、私らが不満に思っている大河の軽さは脚本の仕上がりによる部分もありますが、それ以上に舞台装置、屋外ロケ、人数に金がかかってないことが一番の原因だろうと思うんですよ私は。過去にこんなことを書きました。

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この記事で引っ張っている寺田農のインタビューは是非一読していただきたい。時代劇に対するニーズの低下は時代劇が本質的に現代劇になってしまったという趣旨の指摘にはぐうの音も出ません。それは時代劇の顛末を現代の価値観のもとでさばく、現代人の感覚ですんなり入るように加工することであり、共感の多寡が人気を左右する時代になったということなんだろうと思います。確かにそれは時代劇ではありません。

要するに本格的な時代劇をやろうにも、本格的であればあるほど、それに見合う視聴率なり興行収入を期待できない=共感を得られないジャンルになってしまったのです。

時代劇を見る人は共感なんてどうでもいいんですよ……どうでもいいは言い過ぎかな。共感より優先したいのは現代では見ることのできない圧倒的な壮麗さです。あんまり使いたくない言葉ですけど、ロマンです。現代人にありがちな、時代が進むほど、思想も技術も人類は進歩してるんだ的ふざけた妄想を粉砕するくらいの迫力が見たいのです。

 

馬が高い、神社仏閣を使うのも高い、エキストラを大量に雇うのも高い。だから毎回セットの中でわずかな手勢と馬だけ動かして、あるいはCGにはめ込んで、せっかく松本潤大森南朋松重豊が騎乗できるのにその迫力を出し切れていない。テレビの枠を出ない陳腐な演出に終始している。それらを総合して、人の演技に注目せざるを得ないというか、そこしか見るべきところがないのです。

 

ちなみに、どうする家康を見続けている私の動機は、松重豊演じる石川数正がいかにして徳川家を裏切るかを見ることです。家康ツアーズでナレーションやってる人が、最後の最後に豊臣方につくんですよ?この配役には何かあるだろう、松重豊の凄みが見られるだろうってずっと思いながら見てます。

……ごめんよ。重大なネタバレしたかも知れませんけど、私の注目はそこです。阿部信玄が退場したら、ほぼそこだけです。