※ご想像の通り、現在公開中のシン・エヴァンゲリオンについて、極力ネタバレを回避した「つもり」の感想を述べています。目を通されても鑑賞に影響はないと思いますが、鑑賞がお済みでない方は本文前半のキングスレイドの感想が終わったところでUターン回避されることを推奨します。
去年の記事でアニメのキングスレイドに言及して以来、品質標準として見続けていたところ、制作委員会が映像パッケージ販売の中止を決定したらしいことを知りました。それも放送開始後2か月あまりの11月下旬に。
まさか販売計画を白紙撤回するほど不人気だったとは。1クール通して何も心に残らないのは敢えてそういう作り方をしていると思っていて、つまりスマホゲーのアニメ化は30分かけてゲームの宣伝をしているようなものなので、いかに視聴者をゲームに引っ張ってこられるかがミッションだったところ、制作側からすればアニメ制作コスト回収の目途が立たなければパッケージ化しなくてよいと判断したのでしょう。
この作品はどこを切り取っても「ファンタジー」の既視感しかありません。主人公の騎士、恋人っぽい姉系の回復系魔法使い、やんちゃな妹系の攻撃系魔法使い、身軽な傭兵と、パーティに際立った特徴がありません。母の思い出の世界にとどまるか現実に帰るかを選択する主人公の話も、何がどうというわけではないのですがとても見覚えのある何かでした。
彼らの旅の目的は聖剣を入手して魔族の長たる魔王の復活を阻止することです。私の現在地は、その封印を管理する森に住んでる妖精と、山岳地帯に住んでるオークと、豪雪地帯に住んでる誰か(まだ見てません)の許可をもらいにいく旅の途中です。良くも悪くもテンプレートに忠実な設定です。聖剣に何らかのひねりがありそうなのですが、すでに見え見えです。
対する魔族側は何を目的に世界を支配しようとするのか定かでなく、人類をひたすら殺そうとします。魔族のモンスターがほとんど人骨もしくは人型なのは何か意味があるのかと思って見ていましたが特になさそうです。魔族にさらわれた人間がゾンビ化(アンデッド?似たようなものです)したものが出てくる話もありましたが、ゾンビというには衣服がととのっており身ぎれいで、魔族の丁寧な仕事ぶりがうかがえます。
辛うじて変化球になりうるのは人類に取り入ったうえで新たな秩序を打ち立てようとするダークエルフの存在くらいで、これも中盤あたりで魔族の攻撃によって壊滅的な被害を被り、今後もジョーカー的振る舞いが可能なのか微妙な立ち位置です。人間の娘といい感じになりかけてたタムが地面に落ちてる光るうんこみたいなのに触ってあっさり死んだのは腹抱えてワロタ。その後のマルドゥクのダサい戦闘に至っては、こいつ何しに来たのかと思ってしまった。
ただ、私はこれでええやないかと思ってます。何がええかって、最近の複雑化しすぎたRPG的世界と比べて極めて単純なので、脳に必要以上の負荷がかからないからです。大した意味もないくせに無駄に頭を使わせる方がよっぽど駄作だわ。しかも作画がそこそこの水準で安定している(特に女の子のビジュアルを可愛く維持するのは深夜アニメの生命線です)ので理想的な品質標準と思ったのですが、目の肥えたアニメ愛好家からは厳しい評価を受けるのでしょうね。
ひょっとして打ち切りもあるのではと勘ぐっていましたが、どうやら現在まで放送は続いているようです。原作であるゲームを食うしかないこの物語はいったいどんな結末を迎えるのでしょうか。スマホゲーは終わりのない物語という虚しい構造を引きずることを始める前から誰もが分かっていただろうに、なぜRPGというゲーム形態が選択されるのか、そしてなぜそれをプレイする人が現れるのか、終わりのないRPGはRPGと言えるのか、CMで宣伝される「重厚なストーリー」とはいったい何のことなのか、今のところアニメで表現できているようには見えないのにスマホゲーにそんなものが存在するのか。不見識な私にとって大いなる謎ですが、どんなに不見識でも終わらせることの難しさはよく知っているつもりです。
さて、封切りから10日経たないうちにシン・エヴァンゲリオンの感想や考察関連記事がyahooポータルで散見されるようになりました。1995年のテレビ放映開始からおよそ26年、2009年に「re:build」として始まった新劇場版だけでも12年という長期間にわたって耳目を集め続けてきた物語について、おさらい的に語り始めることはおろか、見終えた感想としてモヤモヤしたのかスッキリしたのか言及することすら「ネタバレ」に該当するらしいので、万が一最後の劇場版をご覧になっていない方が読んでも問題のないよう、知りたくないと思われることは一切書かないルールに基づいて感想を述べます。
読者登録しているフミコフミオさんも苦労しながら感想を書いておられます。細部に触れようとすると訳がわからなくなり、ひとりで脳内ツイスターゲームをやってるような入り組んだ文体になります。読む人を当惑させるだけなので、こういう書き方は回避したい。私のルールではリードがネタバレを含むので、不用意なクリックに用心してください。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は始まりの物語だった。 - Everything you've ever Dreamed
事前に「さらば、全てのエヴァンゲリオン」と散々周知されていたので、どんな感想を抱こうがこれで最後なのは間違いないのだろうと思っていましたし、見終えた後もそれは嘘ではなかった、と言えます。それは私がこうあってほしいと願った内容で、リアルタイム世代より10年以上待たされた時間は短いながらも「ちゃんと見に行けてよかった、生きていてよかった」と思いました。
見ている最中、鑑賞者の記憶が走馬灯のようにめぐるのです。蛇足の注釈ながら、走馬灯とは盆提灯やお通夜の灯篭の中に仕込まれている、電球が発する熱による上昇気流を利用して青い筒がくるくる回ることで模様が回っているように見える機構のことです。それは事前宣告通りに物語を終わらせるための、連綿と続くエヴァの歴史を想起させることによって感慨を深くする常套手段なのかもしれません。私はそれでよかったと思ういっぽう、感想会で友人Aはこう言います。
「終わったのは分かったし、gentlyさんの言うように百点満点をつける人は他にもいたけど、ただ、僕の見たかったものとは違うんですよね、終わりに向かって走っていくことよりも大事なことってあると思うんです」
友人Aのいう「見たかったもの」とはQにおけるナディアとの融合、すなわちネオ・アトランティスの攻撃からニューノーチラス号発進までのプロセスと完全にシンクロする、使徒の攻撃から主機点火に至るまでのヴンダー発進プロセスであり、ネモ船長と完全にシンクロした葛城ミサトであり、ネモ船長だった大塚明夫さんが機関長だったり、その後にやって来る必然的な重々しさとは別種の爽快感、感想会の言葉として出てきませんでしたが、庵野監督の溢れ出るリビドーのようなものが感じられなかったということです。それは私も分かります。無茶苦茶したかっただろうに堪えている感じ、物語の終わりを意識して収束に向かおうとする意思を確かに感じました。再び友人Aの言葉を借りるならば
「物語の住人で居続けることを一切許容しない終わりでしたね」
見終わってみれば、あの時彼らはどこでどうしていたのだろうとか、DSSチョーカーの拘束力とか、今地球はどうなってしまっているのかとか、なぜあそこなのかとか、なぜあの顔なのかとか、お前そこで何してんねんとか、鑑賞後も考察班が盛り上がれるギミックを多数残したのですが、形はどうあれ一つの物語の終わりを見届けた私に言わせるなら、もはやそれらは些細なことでしかなく、盛り上がりたい奴だけ議論していればいいのです。
たとえ公式が「これで最後です」と言ったところで、終わらせたくない人々が相当数いることは容易に想像できます。人によって四半世紀以上もこの物語の帰趨に振り回され続け、振り回され続けることが常態化したのですからやむを得ないことです。エヴァの終わりは自分の心の中に終止符をつけ、次の居場所を探すということであり、踏ん切りがつかない見た目よりはるかに精神年齢の若い大人が無数に存在し、何を見せられても終わらない、終わらせないままにしておくことが楽しい人たちなのですから。
そして少なからず、エヴァに限らず作品を見たときの社会情勢がどのようであったかも、作品の感想を語るうえで重要なファクターとなります。昨年来続くCOVID-19の影響により、当初2020年6月の公開予定が2021年1月に延期となり、再びの延期で3月8日となったことに「エヴァシリーズ、完成していないのではないか」といった噂も立ちました。延期が報じられるたび、庵野さんが完成形に納得していないのではないか、またあまたの疑問を抱えて劇場を出ることになるのではないかと心配したこともありました。
繰り返しになりますが、見終えて、私はあれでよかったのだと思います。
なぜ良かったと思うのか、エヴァという物語全体を見渡して最後にもう一つ言いたいのは、製作スタッフの皆様はこの26年間、表現の仕方は違えど、伝えたかったことは同じだったということです。多数のファンに疑問を植え付けたテレビの最終回も、「気持ち悪い」の旧劇も、貞本さんの描いたマンガも、ひとつの結末を提示したという点でシン・エヴァンゲリオンと違うところがなかった、ただ分かりにくいだけだったと思うのです。旧劇を終えた時点で庵野さんの中にはやり終えたという手ごたえがあったのに、いまいち伝え切れなかったために作り直したのが新劇場版で、それは表現者としての自己批判であり、進化、覚醒を促すつらい作業であり、あれで足りないなら何を足せばよいのか、どう表現すれば伝わるのか、見ているだけの我々の想像を絶する苦難があったと思います。そりゃゴジラに寄り道したくもなるよ。
……これ以後に社会現象となった「魔法少女まどか☆マギカ」(以下、まどか)の劇場版前後編はテレビ放映の再編集版と誤解されている向きがありますが、追加カットを含む演技の再録が行われています。そのコメンタリの中で斎藤千和さんは「同じ作品で二度演技するのは大変な難しさがある」という趣旨のことを話していて、一度見た人に、同じシーンでどう変化をつけるかに心を砕いたというのです。
まどかも一定の難易度を持った作品とはいえ、最終話における混乱はエヴァに比べれば微々たるものでした。しかし、声優が二度演技することをためらうということは、絵を作る人たちにも同等程度のプレッシャー、一度見た人も初めて見る人にもそれぞれが何かを受け止める絵作りに苦労されただろうと推測するのです。エヴァはそれを四半世紀かけてやってたわけですから、関係者の生みの苦しみはいかばかりでしょう。
安野モヨコさんがカラー10周年記念展の図録に掲載した漫画にもあるように、大きなかぶを引っこ抜く(私の想像ではそれ以上の負荷が存在するのですが)に匹敵する心的、体力的コストがかかるうえに、その出来について世間からああでもないこうでもないと言われ続けるのですから、好きとかいう不確かな感情ではなく、必ず完結させるという強固な使命感がなければやっていられない仕事です。終わりを描くということはそれだけ労力を要する難事業であり、世評をひっくるめて納得させるのは至難を極めることなのです。
以上が、私の現時点の感想です。もう一度劇場へ見に行く予定は今のところなく、パッケージがリリースされたら購入して、何度か繰り返して見ることになるでしょう。Qのときは正直購入すべきかどうか迷ったけど。人生の終わりより先に物語の終わりを見届けることが出来たこと、制作スタッフの皆様に心からのお礼を申し上げます。ありがとうございました。そしておつかれさまでした。素晴らしい映画でした。