working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

葬送のフリーレンを見終えて

皆様こんにちは。トレンドに乗り遅れること1か月超、やっと葬送のフリーレン1期(全28話)を見終わりました。

frieren-anime.jp

 

……アニメに限らず、お芝居の感想ってとても難しいものなんですよ。突き詰めれば「性質的に人に読まれるものではない」とすら言っていいでしょう。なので私はよほどの思い入れがない限り、作品ごとの感想を書かないようにしています。

過去に書いた私の感想らしい感想と言えば、こんな感じです。

working-report2.hatenablog.com

working-report2.hatenablog.com

エヴァについて書いていますが、エヴァの筋書きが具体的にどうなのかほとんど触れていません。これを読んだだけでは、エヴァがどんなお話なのか分かりません。

それが面白いか、感想として正しい姿なのかは別として、いまいち何が書いてあるのかよく分からないが、熱量は感じる、好きなのはわかる。感想とはそういうものだと思います。

沸き立って有り余る感情の置き場以外に機能しない、誰かにインスパイアするかどうかも定かでないから、読まれないのです。

 

外に目を転じて、たとえば。

自分が未見の作品を、配信もしくは放送とほぼ同時に見ている人の感想として

「※ネタバレはありませんっ!」

ていくら大書してあっても、鵜呑みに出来るほどブログ管理人と信頼関係が構築出来てるわけではないので、見る前には絶対読まないです。

「※ネタバレあり!」

なんて書いてあったら尚更です。それはストーリーの核心暴露がメインですよと言ってるに等しいわけでしょう。そんな記事は見た後でも読まないです。ネタバレありきで何が起きたのか説明できる記事は、心が激しく動いていない。そう判断します。

「感想」

とタイトルしながら、権利者の許可なく画面キャプチャ貼りたくってるのに至っては論外です。

 

心揺さぶられる作品を見た感動を他人に伝えたいというならば、その揺さぶりを自身の言葉で表現するのが感想じゃないのか?

 

で。

放送が終了して配信が継続している現在、果てしなく広いインターネットの何億というユーザーの中には、まだ見ていない人がたくさんいるわけです。見た人の数より圧倒的多数が見ていない、と言っていいでしょう。そのうち日本語が分かるのはせいぜい数千万でしょうけれど。

したがって、既に見た人にも、まだ見ていない人にも、退屈にならない、見る楽しみを奪わない、そんな感想にしたいと私は考えるわけです。

読んでくれた人に「そうだよね、もう1回見てみよう」と思えるほどの感情起伏をもたらし、あるいは見ていない人に「どんなお話なんだろう?見てみようかな」と興味を抱かせ、行動変容を促す。これこそが感想冥利に尽きるというものです。

ブログ管理人は物語の紹介こそすれど、ビジネスプレゼンテーターではないのですから、1から10まで説明する必要も義務もないのです。

 

感想を書くことのなにが難しいか、皆様にもおわかりいただけたでしょうか。視聴して思ったこと、感じたことをただ書くだけ、それは確かに感想ではあっても、誰もが心置きなく読める内容ではないのです。私はその状況を一歩進めたい。

以上の認識に基づいて、これからフリーレンの感想を書きます。出来るだけわかりやすく書きます。なお、上に書いたことが出来てるかどうかは正直保証できません。だから難しいんですよ。

 

見始めた頃、このお話が何を目指しているのか、ずっと引っかかっていました。

主人公のフリーレンはほぼ不老不死のエルフです。チート主人公もいいとこですね。

そして倒すべき悪の権化はもはや存在しません。異世界無双にゆるふわライフを組み合わせたその他作品に倦怠感を覚える人は私だけではないはずです。

 

でも、退屈な作品群とは明らかに違いました。すぐに断念せず、ちゃんと見てよかったと思いました。

 

彼女を介して世界を見つめる私には、画面のどこから湧いてくるのか、適切かどうかは分かりませんが、近い表現をするなら「空虚感」が伝わってくるのです。

人間の短すぎる寿命に過剰な未練を持ち合わせない彼女の態度は気持ちいいほどさばさばしています。盛者必衰の理を超えてしまった存在としての空虚感を纏っているのは確かですが、人生に絶望しているようには見えません。

かといって、人間である他の登場人物、あるいは画面の外で傍観している私は、自分の寿命が短いとも、あるいはフリーレンが羨ましいとも思っていません。無限に等しい彼女の生涯において、人間と共生する限り出会いと別れの繰り返しを運命づけられたことが呪いのようにも感じられます。

 

ほぼすべての課題が解決したファンタジーRPGのような世界において、生きる意味とは何なのでしょう。

人生の指針を見失った、というほどの経験もしていない若者の間で、かつて「自分探しの旅」みたいのが流行りましたが、いま歩いている自分がそこにいるのに、世界のどこに行ったって見つかりっこないものを探している空虚感とでも言いましょうか。

……今検索かけただけでもちょっと笑っちゃうくらい色々出てきました。

魔王討伐、世界平和のような目的を社会から期待、強制されることもなく、生きたいように生きればいいはずなのに、そこには大きな物語が存在せず、手本となるべき栄光の勇者御一行様もかつてはいたけれど、模倣することもかなわない世界です。

冒頭の引っかかりに戻りますが、物語に壮大な目的、偉大な目標みたいな、俺たちはこれをやるんだぜ!みたいな、近づいたらモワッとしそうなクソ熱さを感じないのです。

基本的に冒険を描写する物語には、大なり小なり途中で何らかの目標、生きがいとまでは言わないですが、何かが見つかるものです。それがないまま進行していくのは、画面のこちら側の私たちの日常生活と変わらないレベルの平熱です。

 

2クールを超える長大な1期を終えて、私はようやく理解しました。何を理解したのかは見てない方に追体験していただきたいので、白文字にしておきます。PCならドラッグ反転で読めます。スマホは……わからん。

 

↓ここから
フリーレンの長い長い人生の中で、冥土へ旅立った仲間達と会話する魔法を求めて北に行くと言っていますが、道々気づいているんでしょうね。

そんな魔法はフランメの魔導書にも、全知全能のゼーリエにもない、あればとっくに知っている。今自分がしているのは魔法を求める旅ではなく、かつて共に旅をした仲間たちを、まるで今そこにいるかのように追慕する巡礼の旅であり、今共にいるフェルン、シュタルクの人生を彩る冒険の旅でもあるのだ、それこそが魔法なのだと。

この旅をもう一度最初から見直して、味わい直してみたくなります。序盤でこの世を去ったヒンメル、ハイターの最後の言葉を改めて聞くことには意味がある、そう思えてくるのです。
↑ここまで

 

それでも本作は、活劇としての品質を損なっていません。鳥肌が立つほどの動画クオリティの高さがあります。魔法による戦闘シーンには、現世に実在しないと分かっていながらも重たい説得力があります。

マッドハウスカードキャプターさくら以来、魔法とはどういう動きをして、どういう色で発動するのか巧みな描写が見られますが、四半世紀も過ぎるとそれはもう本当に魔法なんじゃないかと思うような動きをします。

原作漫画は止め絵で済むところ、アニメでは魔法描写を動かす必要上、テキストの説明が実際どういうものか、まさに魔法のようにしっかりとイメージして描かれているのが分かります。

 

そして役者陣です。ちょっと感情が抜け落ちてるフリーレンの種崎敦美、フェルンの市ノ瀬加那(偉そうに敬称略してすみません)の絶妙な間合いは、とても、とっても、よいものです。

師匠「フェルンは早見沙織やろ?」
じぇ「ちゃうって何回いわすんや」
師匠「斧の奴は下野紘阪口大助
じぇ「その声優知識は20年前かな」

種崎さんはダイとアーニャで腰抜かすほどビックリしたところですが、ちょっと賢そうな羽鳥智世っぽいフリーレンはぴったりだと思います。

フェルンは人間なので、物語の進行とともにだんだん大きくなります。ちょっと大きくなり過ぎなのではないかと思うくらい、丸くて可愛らしいです。

 

ただですね。私が一番言いたいのは、この28話を通じてどのキャラが一番好きなん?て聞かれたらフェルンちゃんって即答すると思った?ざんねん!ユーベルちゃんでした!ってことです。

魚が死んだような目。人を食ったような態度。惜しみなく見せる美しい腋下部。そして声は結束バンドのメインボーカル・喜多郁代役の長谷川育美(敬称略)。これ以上なくすべてが揃っています。

師匠「サイコパスじゃないか!殺されたいのかあんた!」
じぇ「俺の知ってる現実の女はみんなサイコパス以上だ」

 

日本テレビ放送網が初回4話分を金曜ロードショー枠にはめ込んで放送するくらい力が入っている理由がよく分かりました。おそらく物語が終わるまでアニメ化されるでしょう。以降の展開も楽しみです。

……複数のソースによると、原作の展開に行き詰まっているのではないかという情報があるのは気になりますが。