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感想・機動戦士ガンダム水星の魔女(まじめ)

皆様こんにちは。これから書こうとしているのは、機動戦士ガンダム水星の魔女全24話を見終えた44歳男性(独身、未婚、過去の交際人数4人)の感想です。最近の悩みは会社の労務問題と逆流性食道炎です。ネタバレを極力回避するつもりですが、たぶん無理ですのでよろしくお願いします。

 

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大河内一楼脚本と言えばコードギアスを真っ先に思い出す私ですので、終盤にかけて怒涛の展開を見せた今作にある程度耐性は出来ていると思ってました。私バカでした。

学園ものだろ?と侮っていたらファーストシーズンの最後で頭をぶん殴られ、セカンドシーズンは首根っこ掴まれて揺さぶられて途中十数回往復ビンタされて、最後に正拳突きでマットに沈みました。そう、それでこそガンダムだ。というより大河内一楼です。

血染めのユフィで見た殺人の高揚感を上回る異常性、アーシアンが人を殺すことの無目的性、スペーシアンに対する無差別な恨みはどこからやってくるのかと言えば経済分配の不平等、不均衡であり、主に殺害を意味する同胞への仕打ちであり、連綿と続くサーガのような、特定の個人の顔を持たない復讐劇でもありました。

複数の魔女、エアリアルの構造、黒の騎士団とブリタニアをほうふつとさせるベネリットグループの立場、兄と弟の対立はカインとアベルの時代からルルとロロまでいくつあったことか。それでも、既視感を得ながらも人を飲みこむ壮大な構想と、その人物像、人となりという意味でのキャラクターを丁寧に描き出す稠密さがあって初めて、脚本家の仕事は意味を持つのだと改めて教わったように思います。

 

水星の魔女は人物の粒が立っていました。母の言いつけに盲従するスレッタはとことん意思のないヘタレの子供に見えて、エアリアルを操って前線で敵を狩りまくる「魔女」であり、勇ましい言動で父に立ち向かい、その父に頭を下げ、株式会社まで立ち上げた辣腕の「魔女」ミオリネは命の危機に際して躊躇なく人を殺すスレッタを前にして立ちすくむ子供でした。

ファーストシーズンの両者に見られた男性的役割(戦場で人を殺すべきもの)と女性的役割(「女子供」とまとめられ、銃後で守られるべきもの)の転換は、長い人類の歴史の中で性的役割分業の名のもとに固定化されてきたしきたり、観念の破壊でした。見た目の性にも中身の性にもよらず、人間として、どちらであってもおかしくないし、どちらかでなければならないこともないのです。

グエルとの決闘に勝利したスレッタは学園最強の称号「ホルダー」とその賞品だったミオリネを手に入れます。2人は花嫁、花婿の立場を擬制され、のちに性差を乗り越えて婚姻を結ぶ点をもって「多様性」とする意見が見られますが、性別に拠らない役割の転換とその自由度こそが、本当の意味での多様性なのです。

 

私はアニメ=現実世界への批判と捉える考察の向き、社会学的な意見には全く賛同しません。経済的、あるいは環境の違いによるスペーシアンとアーシアンの分断を南北格差と比較論考することに意味があるとは思いません。

なぜなら、百歩譲って現実世界をプロットに取り込んだとしても、それはせいぜい鏡に映した世界であって、現実の経済、環境、安全保障の格差にプラスにもマイナスにも作用しないからです。

要するにコンテンツは世界情勢に干渉しうるものではなく、そもそもそれはコンテンツの役割ではないのです。

経済と環境と安全保障の問題は舞台がどこであれ戦争の火種になります。人は利益を守るために戦争をするのであって、侵略、略奪も自国防衛の名のもとに行われるのです。

コンテンツはそれを見た人の行動に作用することはあるかもしれません。見た人のわずかずつの行動変容を促し、少しでも世界がいい方へ向かうことを期待する、そういうものだと思います。

過度な役割を背負わせ過ぎなんだな、あの人たち。それか、自分のアニメ趣味に学術的粉飾を施してごまかしてるかのどっちかだわ。

 

水星の魔女は宇宙世界を覆う経済の問題になんら回答を提示せずに終わりました。ミオリネが財産処分した結果としていくばくかのお金は落ちたのかもしれませんが、継続的な不平等、不均衡の是正にまでは至りませんでした。

私はここに本作の限界を見ます。散々命を奪い合った末、突然楽観的なユートピアを描くことは無責任であり、一歩間違えばディストピアになりうる世界、そしてすでにディストピアと化している地域も一部に存在する世界が悪くなる可能性を提示することは作品自身がその無力性を認めることになってしまうからです。

それを回避するために、部分的、限定的幸福を描くにとどめたのは作り手の良心だったと思います。これからも世界のために働こうとしているスレッタとミオリネ、そして無力化したプロスペラの安寧な余生を文字通り「祝福」する形で幕を閉じたのは、大きな物語だった割に箱庭的な都合のよい平和に違いありませんが、私はそれでよかったと思いますし、それ以上の平和的解決を見せたならそれはガンダムではないとすら思います。

国家的、組織的利益のために、正義にも悪にも属性を持たない人間同士が殺し合うさまを描くのがガンダムです。そこには正解も正しさもありません。紛争の最終解決手段として命をやり取りすること自体が間違いそのものです。

その結果、世界の向きが悪くなるより、よくなる可能性を見るほうがいいに決まってます。部分的、限定的幸福は無責任な希望とは思いません。人類は愚かかもしれませんが、少しずつ賢くなっているのだと、私に限らず誰もが思っていることでしょう。

 

まじめに書きたいことは他にもあるのですが、長くなりすぎると言いたかった趣旨がぼけるのでカットしました。次回はふまじめな感想を書きます。