このたびの京都アニメーション放火事件によって犠牲となられた方々に、衷心より哀悼の意を捧げますとともに、負傷された方々の一日も早いご回復を、心よりお祈り申し上げます。
前身のブログでイスラミック・ステートについて触れた時に、人間が対立するのは資源の再分配がきちんと行われていないからだと書きました。
経済的、精神的な恩恵に与れない側が不満を蓄積させた結果として、命の略奪が一方的に正当化されるという意味です。
いずれ逮捕されるであろう容疑者が対立していたのは京都アニメーションではなく、容疑者を取り巻いていた環境の全てが、大なり小なりの不満を抱かせるものだったのではないでしょうか。
人間が取り返しのつかない犯罪を犯すとき、狂っているだとか、普通の人間ではないだとか、社会の風潮なのか単なる思考停止なのかはともかく、日本ではテレビメディアを中心に安易な結論へ流れがちです。
今回もコンビニ強盗の前科持ちだった、したがってそもそもの人間性に致命的な問題があったのだと言わんばかりのことが報じられていますが、ではなぜそんな人間が出来上がってしまったかについて、もう少し踏み込んで考えるべきだと思っています。
「小説をぱくりやがって」という供述を動機と関連づけて考えるのは無駄です。そんなことが動機になりうるのだとしたら世の中のコンテンツ愛好者はことごとく「予備軍」だと言っているに等しい。
過程はどうあれ平均寿命の半分近くを生きてきた人間が、「京アニ」という会社を認知した上で標的にしたという行為には、狂っている以上のおぞましさがあります。
都会の真ん中にある社屋ビルではなく、少し大きめの住宅といった風情の無防備な建屋を狙ったのは、子供がうるさいという理由で小学校に侵入するような、少なくとも自分が勝てる相手、弱者は誰かを判断している冷静さがあります。
刃物やガソリンまで用意して犯行に及んだ経緯には、到底ただの狂人にはなしえない、周到な計画性と明確な殺意があることは明らかです。
そしてその向かう先が、ガンダムでもエヴァンゲリオンでもトトロでもドラえもんでもなかったことに、コンテンツへの何らかのこだわりがあったと推測されるのです。でないとわざわざ埼玉から出向いてこんなことをする理由がないからです。
供述が信頼のおけないものである以上、この先は推論を重ねてゆくほかないのですが、コンテンツへのこだわりとは京アニ作品への愛だったのではないかと思うのです。
愛するものを害したいという感覚はどこから生まれるのか、それは貧困です。
埼玉のワンルームマンションで細々と暮らす独居の40代、と字面に表すだけで寒々しい環境下、容疑者は日々の救いをアニメに求めていた可能性が極めて高いと思われ、中でも京アニ作品の美しさ、面白さに惹かれていたのだろうと思います。
しかし貧困は、確実に人の心を蝕みます。
貧乏は買ってでもしろと言う人がいますが、あれは物事の一側面を言い表したに過ぎず、貧乏で内面が育つ人は育つ資質のある人です。大半がそんな資質を持ち合わせていない以上、大勢の人間が貧困によって心を狂わされます。
貧しいから奪う。富める者を殺す。自分たちが行わなければ誰も助けてくれない。そう考えるようになります。
私と同世代の容疑者がこれまでどんな人生を歩んできたのかなんて興味も関心もありません。せいぜい生きづらかったのでしょう。
これは私の思い込みかもしれませんが、何をしてもダメだった、気がついたら40を過ぎていた、誰にも相手にされなくなった、そういう人間が最後の心の拠り所とするのは、アニメーションなのだろうと思うのです。
少なくとも私の場合は、疲れた時やつらい時はいつもアニメーションが心を和らげ、気持ちを楽にしてくれました。だからこそ容疑者は京アニを知っていたし、京アニを狙うインパクトの大きさも理解していたのだろうと思います。
その愛が裏返しになる瞬間を私は見たことがないのですが、今まで心の救いとなっていたアニメの力が及ばないほど貧困が進行したときがそれなのでしょう。
アニメが助けてくれなくなった。自分はこんなにアニメを愛しているのに。こうなったら愛を奪いに行くしかない。もし私が貧困の苦しみに耐えかねたなら、たぶんこのように考えます。これは現実から乖離した妄想です。妄想によって凶行が正当化されるのです。
それらを十分踏まえた上で実行に及んだ判断力は普通の人と変わりがないと私は思います。
ただ、もう一歩先を考える余裕が容疑者にあったなら、自らの人生のつらさは誰のせいでもなく、ましてや京アニそのものや京アニへの愛のせいでもなく、この行為がなんの解決にもならないことに思い至ったであろうことが、ひたすら残念です。
ここまでなんとか冷静さを維持して書いてきましたが、私は悲しく、悔しいです。なんでこんなことになってしまったんでしょう。この2日そればかり考えてます。貴重な才能が数多く失われて、会社存続も危うい状況下で、私にできることといえばお金を出すくらいでしかありません。