working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

12回目の春

皆様こんにちは。東日本大震災から今日で12年です。筆舌に尽くし難いあの記憶を私の文章力では皆様にお伝えすることができないので、積極的な言及は避けてきました。

先日NHKで放送された南海トラフ地震のドラマと特集を見てから、1年に一度くらいはちゃんと考える機会を持たないと、このままではただ記憶が風化していくだけだな、多少稚拙でも今あの日以降のことをどう感じているか残しておいた方がいいだろうと思い直して書くことにしました。

 

2011年3月11日は金曜日でした。大阪で暮らし始めて9年が経過した30過ぎの私は、その日も職場でとある事業の打ち合わせをしていた最中、聞いたことのない地鳴りがして、その少し後に揺れると思っていなかったオフィスビルが、揺籠のようにゆっくりと、左右に、長く、揺れたのです。揺れたと言うより、何かにぶら下がって振られているような感覚でした。

上司の机に向かって立って話していたので、最初は「昨日飲みすぎたかな」と思ったくらいでした。私がさっきまで座っていたキャスター付きの椅子もつられて揺れているのを見て、各所から悲鳴みたいな声が上がっているのがちょっと滑稽かなくらいの気持ちで、揺れが収まりしばらくしてからテレビの映像に度肝を抜かれたのです。

田んぼの真ん中に伸びる一本道を、1台の自動車が疾走しています。その数十メートル後方と両脇から、白い田畑を塗りつぶすように黒い、そして恐ろしく速いインクのような何かが追ってきます。それが津波だと理解するまで時間を要しました。今何を見ているのか頭の整理がつかない状況でしたが、大阪は最初の揺れから特に問題なくインフラが動作していましたので、しばらく画面を見たあと業務に戻りました。

ただ、東北と関東がとんでもない状況になったことは分かっていましたので、その日飲みの約束をしていた友人を難波でピックアップしたものの到底そんな気になれず、とりあえず友人を連れて家に帰り、改めてテレビをつけたら、まるで地震津波の痕跡を焼き払うかのように、気仙沼の街一帯が燃えていました。そして繰り返し、福島第一原発の原子炉が置かれた建屋が吹き飛ぶ映像が流れました。

 

東京で働いていた師匠(同い年)や先生(同い年)は無事が確認できたものの、徒歩で帰宅できないので霞ヶ関だったか渋谷あたりだったかで寝ると連絡がありました。そして当時、ブログを通じて知り合った友人たちが宮城県に住んでいることを知っていたのですが、何度かメールを送ったものの返信はなく、電池を消耗する携帯で連絡を取るべきではないと気づき、取り急ぎ聞いていた住所に宛てて、届くかどうかは不明ながら烏龍茶とオレンジジュースを数箱送りました。大阪からもペットボトルの水が消失していたのでそれしかありませんでした。

 

土日はずっとテレビを見ていました。言葉を失いました。連日、津波の映像が流され、その恐怖と、大勢の人が亡くなった事実に耐えきれず、夜になると眠れないくらい不安で、ささくれ立った情緒を宥めるためにひだまりスケッチを見ていました。すごいですねひだまりスケッチ非常時においても心を落ち着かせる効果は絶大でした。そういえばテレビ東京は全てのキー局に先駆けて震災の翌日から報道特別番組をやめてテガミバチを放送しました。大変な最中こそ娯楽も必要と判断したのでしょうか。

 

数日後、送ったジュースの段ボール箱で遊んでいる友人のお子さんの姿が写真で送られてきました。そしてつい先日、そのお子さんが中学を卒業したと写真付きで連絡をもらった時は、職場でしたが泣きました。突然泣き出したので部下には「花粉症が突然来た」と釈明しましたが。よその家の子はちょっと見ん間にすぐ大きくなります。時間の流れは早い。そりゃ私も老いるわけだ。

 

大阪は被災を免れましたが、週明け以降、何をやるにも不謹慎というワードを常に意識せざるを得ない状況が続きました。飲み会は自粛。祝賀関係も自粛。おそらく、震源から遠いいずれの地域でも似たような状況になっていたと思います。みんな気持ちが沈んでいました。

今は見なくなったWBSの出演者が、何も起きなかった地域が今こそ活気を取り戻さないと日本全体が沈んでしまう、無傷の関西は経済を回して、その波及効果を被災地に届けるくらいのマインドでやらなきゃダメだ、自粛では何も良くならないと言っていました。それは分かるんですけど、とはいえ、消費のマインドって、それに先立つ盛り上がりがないと回復しないものです。つくづく、阪神淡路大震災の時も、東日本大震災の時も、時の政権は復興を口にするばかりで、国民に勇気も元気も与えられなかったんじゃないかと思ってしまいます。

 

震災から4年経った2015年2月、お仕事で青森、岩手、宮城の各県を回る機会があったので、ブログ以外で初の顔合わせとなる友人が車を出してくれるというので石巻を2日にわたって案内してもらいました。松島、瑞巌寺を回り、ちくわ、ホタテ、お魚の煮物焼物、焼きそば、お酒(私だけ)のパレードです。美味すぎる。特に石巻焼きそばはB級グルメと呼ぶのが憚られるほどに優しく出汁の香る味でした。また食べに行きたいなぁ。

icotto.jp

楽しい思い出もさることながら、私の記憶に最も強く刻まれたのは、神社のある丘から石巻漁港方面を見たときでした。

 

海と陸を隔てる線が一本。それしかないのです。

 

海は静かに凪いでいて、陸は嵩上げ工事の最中で建物が何もなく、重機とトラックが盛大に土埃を巻き上げながら作業していました。あれから相応の時間が経ったのに、がんばろう日本だの何だの言ってるのに、現地は復興どころか、これから街を作り直す段階だったことにショックのあまり、膝をついて呆然と海岸線を眺めていました。

 

もしも大阪で大規模地震が発生したら。先のドラマに限らず、非常時の備えを会社でもテレビでも言われ続けている昨今、水やガス缶の備えはしていますが、こればかりは起きてみないと分かりません。会社のビルなんて築50年過ぎてますから、万が一仕事中に来てしまったら建物諸共ペシャンコになるかもしれません。南海トラフは今後数十年の間に必ず来ると言われています。私の存命中には来ないかも、1時間後か1分後かも、1回だけとも限りません。それでも覚悟と備えは必要です。間接的にではありますが、二度の大規模災害を経験した以上、もっと賢くありたいものだと改めて思います。

 

……甚だ拙いながら、私の東日本大震災にまつわる話は以上です。友人とは今もお酒を送り合っています。もらうお酒がすぐなくなるのは妖精のしわざです。