working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

AIとイラストと私

皆様こんにちは。20年前の2004年2月1日、ふたりはプリキュアのテレビ放送が始まったそうです。2018年、公式にプリキュアの日と定められました。私は毎日プリキュアの日みたいなもんですけど。国はただちに祝日法を改正しましょう。

なかよしで20年間、漫画プリキュアの連載を続けている上北ふたご先生のポストは目が離せません。異なるキャラクターデザイナーの質感を損なうことなく上北流に仕上げる技術は、紛うことなき重要無形文化財です。国はただちにご両人を人間国宝にしましょう。

 

ところで最近の私が気に入らないのは、AIイラストです。どいつもこいつも似たような美少女描きやがって。ていうか描かせやがって。私はそんなもんに価値を認めんぞ。

AIはキャラクターイラストに宿る描いた人のくせ、その人らしさ、他にどんな言葉で表すのか、「み」とでもいうべきものを再現できない、と思っています。「み」とは筆致だけで表現できない、絵全体から出てくるオーラのようなものです。

学習を蓄積し、集合知の最適解を表出したAIイラストは美しさにおいて人の手と遜色なくとも、私の心を動かしません。そこに「み」を感じないからです。

 

ただし、今後AIが「み」を獲得する可能性はあります。正しくは「み」ではなく先人の誰かの模倣であり、AI自身の創作ではないのですが、いつかそれは見る側にも分からなくなるほどにレベルが向上するでしょう。使い方次第では現在すでにその一歩手前に来ているかもしれません。技術の進歩とはそういうものです。

そうなれば、人の創作活動が滅んでしまうかもしれないことは容易に想像できますね。AIが仕事を奪う、というやつです。しかしながら、AIの代用が進んで結果的に人が創作活動をやめてしまえば、AIは学習する手段を失い、人類は創造的な営みそのものを失うことになるでしょう。

AIがAIのイラストを学習しても、それは既知の何かを再認識するだけ、互いが互いを同期し合うだけです。なぜなら、AIにはいまだに意思が存在しないからです。こういうものを作ろう、作りたいというポジティブかつクリエイティブな営みを自発的に行えない、ということです。

 

これが現在のAIの限界、いわゆる「弱いAI」と呼ばれるものです。やがて自立的な意思をもって人間と変わらない創作活動を行えるAI、いわゆる「強いAI」が登場する、と言われていますが、技術限界点、厨二語で「シンギュラリティ・ポイント」と呼ばれる、「弱い」から「強い」への転換点は、今生きている人類が元気なうちどころか、そんな日は訪れないし、訪れるべきではないと考えます。

AIが人類の英知に比肩または超越する社会、それは間違いなく人類にとってのディストピアです。やがて人類はAIに飼われるだけの存在になりかねません。種としての生存理由を失うに等しいことです。

人類にとって有用かつ知的なAIの利用法は、人類の知性や創造性を損なわない範囲で、補助ツールにすることです。

自分のチェックできる範囲でAIに文章を作成させたり、イラストに細かい線を描かせたり色を塗らせたりすることはあっても、自分の知らないことをAIに尋ねて鵜呑みにしたり、白紙からイラストを描き起こさせて「私の絵です」なんてことをやらかすのは、人類の英知と創造力の敗北です。

 

結論。上北ふたご先生のイラストは素晴らしいです。

画集買いました。これからも末永く画業を続けていただけますよう、心より願っております。ここまで書いて上北ふたご先生が実はAIでしたなんてことになったら、私は切腹するより他ないな。

同期「東堂いづみって誰なん」
じぇ「矢立肇みたいなもんや」