working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

モノとデータの価値

皆様こんにちは。

尊い

私にあとどれくらいの時間が残されているのか分かりませんが、Blu-rayを買い続けてます。今年最多の3回も劇場に足を運んだ高木さんの映画を家のテレビで酒飲みながら見るために7,000円くらい払いました。これで映像作品としての高木さんはすべてコレクションしたことになります。……なんですか?今どんな気持ち?とりあえず全部の高木さんパッケージ表紙を並べたらどうなるかやってみました。

 

こういうデザインのおふとん出たら買おう

 

そらね、生きていてよかったー!歌いたくもなりますわ。下心満載で私が通り過ぎた、あるいは汚れない心で私を通り過ぎたことにしておきたい女たちの事、その無益なランデブーリピートのために蕩尽された財貨なんかどうでもよくなるくらいに。

 

……先日、モノを持っていることは価値、という趣旨のことを書きました。音楽や映像はデータとして存在する限り、わざわざ家に記録媒体として持たなくてもいい、欲しい時にそれなりのお金を払えばいつでもアクセスできる環境があるのにその考え方は古い、時代はオンプレミスよりクラウドだよ?という意見が大勢を占める昨今、私もそうなんだよなぁと思いつつ、モノを持つことの意味や価値についてだらだら述べたうえで、ただその価値が個人に帰属する限り永続しないし、モノも時間も有限なんだよみたいな話にするつもりです。

 

AmazonプライムNETFLIXなどサービス提供元の映像、音楽コンテンツのデータがクラウドサーバから消されてしまったら、それはこの世にないのと同じことになってしまいがちです。可用性が担保されているはずなのに、そこにあるべきデータがなければ利用できません。先日まで見られたはずの映像コンテンツが突然ラインナップから消える話をよく聞きます。見たい時に見られない、今後もいつ見られるか分からない、もう見られないかもしれないのは恐怖です。月々お金を払うにもかかわらず、「この恐怖を受容せよ、お前の見聞きするべきものは我々が決める」とでも言わんばかりのサブスクの態度に私は賛同しません。なのでサブスクに金払いません。

 

デジタル・ネイティブと呼ばれる世代と、アナログとデジタルの混合を潜り抜けてきた(便宜的にアナデジと名付けましょう)世代とでは感覚が逆というか、意識が違うと思うのです。何が違うか。モノとデータの優先順位です。デジタルネイティブはモノをほとんど意識することなくデータを使いこなしますが、アナデジの私はCDからデータを取り込んだり、アニメを見ると言えばいったんHDDに取り込んで気に入ればBD-Rに移して……という具合に、同じデジタル環境にあってもモノ前提で考えます。モノがないと不安だからです。

そして、モノがあることで同時に愛着を得るのです。目に見えるだけではなく、手に取れることで思い入れが強くなる、対象への愛が深まるのです。手を強く握っても、どんなに抱きしめても、どんなにキスをしても、どんなにナニとナニが物理的に接続しようと私をすり抜けていった女たちとは比較になりません。従来の私はモノを持つことは繰り返し鑑賞することを前提にしてきましたが、ようやくそれは違うことに思い至りました。あくまでモノは安心材料で、何度もリピートする必要も義務もなく、今すぐ使う予定はなくても、持っておかないと不安なのです。

 

しかし近年、モノが半永久的に持続する媒体ではないことが言われています。特にLD、CDは劣化が著しいようで、読み取れなくなる事例が多発しているようです。ただ、そうした主張は私的なWEBサイトやTwitterなどのSNS投稿が多く、それぞれの管理状態が実際どうだったのか確証が得られませんでした(発生した事実は事実なんでしょうけど、どれにも偏執的なものが感じられました……モノに執着する人固有の性癖なんですかねあれは……)のでリンクは貼りませんが、高温、多湿、直射日光などの基本的悪条件を回避していれば30年以上は持続するだろうと思います。DVDやBDに関しても繰り返し録画できるREのほうが脆弱、といった記事もありましたが、DVDは20年少々、BDは10年少々と登場から時間が経っていないので、何か起きるとすればこれからでしょう。

 

ところで問題は「半永久性」です。当たり前ですが、私たちの天命は半永久ではありません。だいたい平均80年、私は既に折り返しを過ぎていますのでせいぜい残り30数年です。そして天命の末端はエンターテイメントを満足に受容できる状態ではないと推察されますので、実際はもっと短いかもしれません。

オタクの家には例外なくモノがたくさんあります。私は5年前の引越しでだいぶ軽量化したとはいえ、まだまだたくさんのモノを持っています。ではこれらのモノがあと何回私のもとで再生されるでしょうか。たぶん1度もされないモノがほとんどかと思います。

先にも書いた通り、その価値はその人が所有している、し続けていることによって担保されているので、本人にとってはそれでいいのです。価値が所有そのものにある限り、日ごろから頻繁に再生利用しない限りは媒体が劣化して見られなくなっていても問題ではないのかもしれません。媒体もそれに見合う寿命しか与えられていないのです。

データとして存在し、全世界のデータセンターが破壊されるか、世界的な電力不足にでもならない限り、つまり可用性が担保されている限りコンテンツの寿命は無限であり、その価値を決めるのはその時代の人間です。しかしそのことと、オタクが再生の可否を問わず媒体を所有している価値との間には何の関係もありません。

なので、オタク個人が価値を認めても、データセンターの運営者が価値を認めないことが往々にして起こります。彼らはオタクのための存在しているのではなくビジネスの継続性のために存在しているのですから当然です。私がサブスクを厭うのはこの点なのです。なのでオタクは少々高くても保険的にモノを持つのです。

ところが実際のところは、オタクの興味の移ろいをはるかに上回る速度でサブスクがカバーしていますし、「再生」を主眼に置く限りモノを持つ必要なんでほとんどありません。配信よりもBlu-rayのほうが音のレイヤを重ねやすく、映像の美しさもBlu-rayが依然勝っているのでアドバンテージはあると言われますが、それもじきに技術が解決するでしょう。

 

何度も書きますが、オタクのモノ所有と、データの不滅性との間には、関係があるようで実は何もないのです。データがあるからモノを買う必要がないことにはならない。私はそう思ってます。果たしてうまく伝わるでしょうかね。もっとも、今まで彼女づきあいしてきた女たちに心からの言葉を投げかけても伝わらなかったことを思えばずっと簡単な問題ですが、これすら伝わらないのであれば今の私が存在する理由もないのかもしれませんね。