working-report 2回戦

ゲーム脳はゲーム脳のままで熱を失うだけ

ほんのみち

皆様こんにちは。先週金曜日に旧部署のメンバーが集まって飲んでました。

おっしゃれ〜

香里園にある古民家をリノベーションして居抜きしたお店で、急な階段を登った2階で約4時間。退職した人、他部署で苦労している人、グループ企業の社長になった人、旧部署の解散から13年経っても全員元気でした。

その会話の中で、元上司からこんなことを言われましてね。

 

「会社のブログを最初にやろうって言い出したのがあの時でよかったな、今はもう無理やろうけど」

 

会社がデジタルな公式発信手段を持っていなかった十数年前、当時の部署で制作したwebサイト(って、私がコード書いた訳ではなくて、デザイナーさんにイメージ伝えて作ってもらったんですけど)に担当者ブログを設置して、当初はメンバー全員で交代しながら執筆するはずが、いざ始まる段階で私の専任になり、1年半ほどの間シコシコ書き続けました。

結果、事業の認知度アップに貢献できたようで、各種イベントも大盛況、最終的に株主様から賞賛のお言葉までいただき、円満にクローズした訳です。

それが「あの時でよかった、今はもう無理やろう」の真意を、私はこう解釈しました。

 

情報伝達手段としてのブログは死んだ。

 

当時は考えられなかったことですが、今や様々な業種で多くの企業が公式SNSを設置し、フォロワー獲得と認知度向上、ひいてはブランドイメージ形成に努めています。

様々な媒体に共通するのは、キャッチーな動画あるいは写真に添えられた、ごく短い文章です。そこには短縮URL並みに最低限必要な文字情報が書かれているだけ(場合によってはそれすら映像に取り込まれている)で、詳細は動画なり写真なりのビジュアルで確認してくれと、そういう情報発信が当たり前になりました。

 

繰り返しになりますが、私のような文系人間には考えられないことです。映像や写真には、文章とは異なる技術、デザインが求められます。

しかしながら、大勢の人にわかりやすく伝えることを念頭に置いたとき、ビジュアルが最大限威力を発揮するのは言うまでもないことです。

文章から映像写真へ、それが新しい時代への対応力、ということにもなるのでしょうけれど、そこまでの気力、自分の力で外部発信に耐えうる技術を獲得する気力が、私にはもうありません。

技術の制限、具体的にはインターネット流量の制限によってこれまで取り扱えなかった動画や写真が大量にやりとり出来るようになり、日時や場所を除いて、情報伝達手段としての文字の地位は大幅に低下した。私はそう思っています。

 

そんな時代に、数千字を費やして伝えようとするブログという媒体は、実はとっくの昔に役割を終えちゃったんですよね。情報が知りたい人には読んでもらえなくなった、という方がより正確でしょうか。

インターネットを見回しても、企業発信といえば今やSNS全盛です。企業ブログなんてほとんど見かけませんし、あったとしても私はもう読めません。これだけ文字を書く人間が読めないんですから、書かない人に読まれるはずがありません。

 

ではなぜブログは今も存在しているのか。それは情報伝達手段ではなく、自己表現手段としての役割が残っているからです。

読まれることよりも書いて表現すること、それをインターネットに、読まれる可能性なんてほとんどない世界に廃棄物のように放り込みながら、いつ役に立つかわからない自らの文章表現能力を衰退させないために続けているのです。

そして誰かのブログを読む行為は、情報収集よりも、筆者の物事の捉え方、考え方が自分と同じあるいは違う部分に対する面白さ、感性への働きかけが欲しくてそうしているのです。

なぜそれを欲するか。文章表現は自分で書いているだけでは進歩しないからです。外部からの刺激を受けて、初めて人は成長すると言ってもいいでしょう。

 

文芸としての可能性を残したブログの行き着くところは、本の文化なんでしょうね。出版できるほど大したことなんて書いてないし、私がどうこう以前に早晩、紙で文字を読む文化は否応なく廃れていくでしょう。

出版文化の衰退と、それでも決してなくなることはない文字文化の間を縫うように、作家でもなんでもない人が文字を書き続けられるスペースとして、ブログは生き残っていくんだろうと思います。